2018/06/29

第92冊 映像テクノロジーを使う者は映像テクノロジーの一部と化す? 『科学者の網膜:身体をめぐる映像技術論:1880-1910』


科学者の網膜: 身体をめぐる映像技術論:1880-1910 (視覚文化叢書)


おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。


ミステリーを読むかのように、映像技術に我々の在り様までもが絡め取られていることをジワジワと明らかにしてくれる、知的興奮の書。
 
 
映像技術と身体との関わりを、 19世紀末から20世紀初頭のパリ、主に五人の科学者に着目しながら検証していく流れの中で、身体の外形・状態を「記録」する対象として人間を扱っていく視点、世界観が、いつしか観察される対象にとっても無意識のうちに自明となり、人々の身ぶりを変えていく、という構造には、ゾクリとした恐怖も覚える。


本文中、しばしば現代の映像技術についての言及もあり、現代に生きる我々の身ぶりもまた、映像技術に暗黙のうちに影響支配されていることが納得できてくるあたりが、実に、実に面白い。



2017/08/22

第91冊 宇宙開発は人道的か? SFよりもSF的な奇書、稲葉振一郎『宇宙倫理学入門』

宇宙倫理学入門 宇宙倫理学入門

 リベラリズムの観点から、宇宙開発のありようとその未来を問うてみる、という「いやその切り口は予想してなかったわ!!」という奇書であります。


 例えば、「技術的には無人で済むはずの宇宙航行を、あえて人命を危険に晒す有人で行う必要があるのか?」という問いが立てられます。リベラリズムはものすごくざっくり言えば「公のために死ぬとか犠牲になるとかナシ。個々人の幸せの最大化が大事」という路線の考え方ですので、「人類のための尊い犠牲」みたいな物語じゃやっつけられません。そんな感じで論を立てて考えていくと、次から次へと問題が浸み出してきます。


 「いや有人じゃないと、仮に他所の知的生命体と遭遇したりしたらまずいのでは?」ときたら、「改造人間、ポストヒューマン……いや、自律的判断ができるのなら、人命優先、ロボットに高度な知性を与えて自律的判断が可能にすればいいんじゃないか」ときて、「いやいや、高度な知性で自律的判断が可能なもの、というのが誕生したら、多かれ少なかれそれは、社会的には人間に準ずる扱いが必要になるのではないか。だとしたら、宇宙船に乗せて飛ばすにしても本人の意思が大事に」……といった具合に、むこう数百年がかりでようやく現実化するかもしれない技術をも視野に入れた、著者曰く「ミドルレンジ」の議論が展開されていきます。

 
 個別の議論の面白さもさることながら、過酷な宇宙進出という「極限状態」を想定することにより、古代の徳に基づく倫理学(徳倫理学)とリベラリズムの対立軸が明確になり、倫理ってのがそもそも何を問うものなのか、ということを見せてくれること。個人の徳を説く徳倫理学は、不可避的に個人をより徳に優れた人とそうでない人、という「差別」を含んでしまう、というのは言われてみれば確かにその通り、目からウロコでした。

 
 「死と危険にずっと近い側」に人間(ないしは、人間に近い知性を持つ何か)を追い込みうる有人宇宙進出は、リベラリズムよりむしろ徳倫理学のもとで行われたほうが、倫理的な困難が少ないように思えます。とすると、古今東西のスペースオペラにしばしば帝国を名乗ったり専制的な支配体制を持っていたりする国家が登場するのは、これまた古今東西の作家たちの、宇宙開発と倫理の関係に対する直感が素晴らしいと言えるかもしれません(宇宙への播種・植民と似たものを、過去の歴史上にヒントを求めるとどうしてもそうなる、という面もあるかもですが)。各種「銀河帝国」をそんな目線で捉え直すと、実に味わい深いものです。ゴールデンバウム王朝も神聖ラアルゴン帝国も、あるべくしてあったのだ、と。

 
 もう一つ面白いのは、SFに昔より異星人が出てこなくなった、それは何故か、なんていうような、SFに対するある種の文学批評的な切り口。それに対する著者の見解は、個人的には実に唸らされるものでした。読んでいるうちにいつしか相当遠くに連れて行ってもらったような気分になる、幸福で遠大な読書体験を得られる、そんな奇書であります。

2017/06/12

第90冊 私怨うずまく言論への論『現代ニッポン論壇事情』

現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書)
北田暁大 栗原裕一郎 後藤和智
イースト・プレス (2017-06-10)
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 196080年代生まれ世代の3人の著者による、ある種の私怨に満ちた書、です。
 70年代生まれのぼくも、ある種の私怨に身を焦がして、この書を購入したのだろう、と思います。

 この本では、著名なリベラル派論客やその言説や言論環境を、3人の著者がぶった切っていきます。

 面白いなぁと思うのは、ぼく自身が10代後半~20代前半頃のあいだの一時期にすごくハマったのに、その後なんだか読まなくなってしまったリベラル派論客たちにぼくが感じていた、その違和感の正体がじわじわと暴かれていくことです。以下のレビューは、その面白さのネタバレになってしまうおそれもありますので、興味を抱いた方は先に本のほうを読んでしまうことをオススメします。

「元若者」世代をスポイルする言説への反逆


 この本で特に槍玉に挙げられているのは、内田樹さん。

 このブログでも何度か内田樹さんの本を取り上げました。
 学問的厳密性は犠牲になるとしても、所々の話題に対して感覚的・体感的な理解をさせてくれる、ありていに言えば「頭良くなった気にしてくれる」著者である内田樹さんの本は、わりと好みだったのです。

 ただ正直、とりわけ内田さんのブログや著書などにある政治・経済関係の話題に対しては、かねてから強力な違和感がありました。
 
 例えばですが、内田さんが中心になって書かれた、憲法9条に関する本で『9条どうでしょう』という本がありました。この本にあるウチダ式の護憲論というのは、かいつまんで書くと、「9条は、武士がこよりで刀を抜けなくしたのと同じような役割を果たしているものだから、このままがいいのだ、抜かずの宝刀として自衛隊を有していることに意味があるのだ」ということです。

 当時の私は、「うーん、でもそれって、有事とあらば憲法も法律も無視して超法規的に動いて良し、って発想と裏表で、法治国家としては一番ヤバいやつじゃねーの?」という疑念が渦巻いたものでした(その後もうちょっと勉強したので、もうちょっと高度な反論がありますが、それは今回は傍におきます)。

 その内田さんが2013年に、「私は今の30代後半から45歳前後の世代が、申し訳ないですが、日本最弱の世代と考えています」と発言したことがあり、当時はちょっとしたネット炎上の騒ぎになりました。

→参照:日本企業は若者とどう付き合うべきか? ~対談・内田樹【後編】 - 日経トレンディネット

 今回ご紹介する本の著者のひとりである北田暁大さんは、内田さんのこの発言を知ったことが、この本の誕生のきっかけであると「はじめに」で述懐しておられますが、その思いは、同じ70年代生まれの私にも大いにうなづけることであります。

 印象論でざっくり語られスポイルされてしまった「元若者」の、現・40歳前後~50歳前後世代は、特にこの本を読んでいただきたいと思います。

「言論」と認知バイアス

 この本の終盤、対象へのレッテル貼りが好きな某有名論客が「自分だけが本質を見ている系」というレッテル貼り返しをされてバッサリ斬られているくだりはなかなか愉しいものですが、その箇所を読んで思ったのは、この本で批判されている論客たちにほぼ共通している重要なポイントがあるということです。

 それは、「自身の表明した言論」あるいは「思想的立場」が強力な認知バイアスとして機能してしまい、もはや「仲間」や「信者」以外とのコミュニケーションが難しくなっている、ということです。

 もっとも、これは人間誰しもが陥る可能性がある(というか、たぶん大なり小なりは陥っている)罠ですから、以って他山の石とさせていただき、現実世界について語るときは、なるべくエビデンスやロジックに基づいて語り、「ただの好み」は論そのものになるべく混入しないところに置いておくようにすんべえ、と思う次第であります(この点を端的に表したキラーフレーズがp218に登場しますので、ぜひご一読を)。

 時代とともに消費され、使い捨てられてしまうような批評そのもののありよう。そんなものへの問い直しともなっている本書。
 
 批判対象への怨みや怒りを隠しもしない鼎談スタイルには賛否あるでしょうけれど、あえて擁護すれば、この本の書き手たちは、それが自分たちの好みや違和感に由来することを、妙なオブラートに包んだりはしない、という点では実に誠実です。

 その点は、この本で批判の矛先となっている有名論客たちが、しばしば私的な印象にしか基づいていないような論を「衒学的な用語による粉飾」や「恣意的な事実の歪曲(統計データの歪な解釈など)」によって語るのとは対照をなします(ちょっと脱線しますが、第3章では、エビデンス軽視とビッグデータ信仰が実は裏表で同一のものだと喝破されていて、おお、おお、なるほど、と膝を打ちました)。
 
 現代の批評のありように違和感を感じている皆様、とりわけ「失われた20年」などというレッテルを貼られた時代に大人になってしまったご同輩には、ぜひとも薦めたい一冊であります。


2017/03/01

第89冊 脳の専門家による神秘体験の究極か。『プルーフ・オブ・ヘヴン』ほか

いきなり私事ながら。

100歳で大往生をむかえた我が祖父は、70代の頃に
臨死体験をして、それが大層気持ち良かったらしいので、
「死ぬのは怖くない、いつお迎えが来てもいい」と毎年
繰り返しながら30年近くを生きました。

そんな祖父の言葉を聞いて育ったおかげか、
私は臨死体験に物凄く興味があるのですが、
幸か不幸か死にかけることなく馬齢を重ねております。


今回の本は、臨死体験本のある意味極北。
第一線で活躍する脳神経外科である著者が、
死後の世界ないしは天国と思われるところで
過ごした経験を語った本です。


プルーフ・オブ・ヘヴン--脳神経外科医が見た死後の世界


医療従事者が神秘体験をするパターンというのは、
ジル・ボルト・テイラーの『奇跡の脳』を思い出させます。
左脳の機能がどんどん喪われていく中で、安らぎの境地を
体験します。



奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき

医師も人間ですから神秘体験のひとつやふたつ、したって
いいと思うんですが、やはり脳の専門家が神秘体験をする、
ってところが非常にキャッチ―ですよね。

日本で数年前に売れた『人は死なない』も、たぶんERの先生が
書いたから話題になったのであって、誰が書いたか知らずに
拾い読みしたら、ただのオカルトファンの妄言に
見えてしまう可能性もあります。

ものごと、何が書かれているか、だけでなく、誰が書いたか、も
重要である、という話ですが、それはさておき。

この『プルーフ・オブ・ヘヴン』の面白いところは、
著者アレグザンダー医師が、自分の治療にあたったスタッフとの
たび重なるカンファレンスを通じて「自らが神秘体験をした時の
脳は、いかなる意識も持ち得ない状態だった」ということをとにかく
厳密に検証したことです。

あえて懐疑的に見るならば、「意識という装置の天才的後付け
こじつけ能力」によって、あとから神秘世界の記憶が生成されていった、
と考えることもできますが、死後の世界がないとしても、そんなヴィジョンが
見られる裏モードが脳にあるのだとしたら、なかなか楽しそうです。

臨死体験、死ぬまでに一度はしてみたい……最低一度はあるのかな?

2016/02/09

第87&88冊 アダムとイブは楽園に帰ってくる? 『イスラーム文化』&伊藤博文もムスリムだった『一神教と国家』

「何だか中東の方ってガチャガチャしてるし、
イスラームの人たちはよく分からんし……」

……と思う方は、ぜひ。

まずはこちらから。


イスラーム文化−その根柢にあるもの



アダムとイブは楽園に帰ってくる?


私が面白いなァと思ったのは、『旧約聖書』にもある、
智恵の実を食べたアダムとイブが楽園を追放される
「失楽園譚」が、イスラームの聖典である『コーラン(クルアーン)』
にもあるけれど、その内容が『旧約聖書』とは異なること。


楽園を追放された二人は、神に赦され、楽園に戻るのです。


要するに、唯一神アッラーは慈悲深く、人間には原罪なんて
ものはない、ということが示されるわけです。



この本は、こんな感じで、キリスト教やユダヤ教との対比を
することで、イスラーム教の姿をあぶり出します。


著者の井筒俊彦先生は、20ヶ国語を習得し、中世イスラム思想を
イランの大学で教えていたこともあるという、おそるべき硯学です。


そんな碩学の本というと、難しいのでは……
と思われるかもしれませんが、さにあらず。


イスラームについてほぼなにも知らない聴衆に、
イスラーム文化がどのようなものかを解説した
講演が元になっていますので、実に分かりやすい。


そして、他との対比や、抽象化・図式化によって
イスラームの特徴を取りだしてくる技がとにかく
鮮やかです。


アブラハムに帰れ、という「古い」宗教


上に引いた「失楽園譚」からも分かるように、
イスラームは実はユダヤ教、キリスト教と同じ
神を信じているもので、実はキリストも、預言者
(神からの言葉を受け取った人)のひとりであることを
認めています。


が、神の声の受け取り方に問題があったので、
ちょっと間違いがある、その点は、最終の預言者で
あるムハンマドのほうが正しいんだ、と、そういう
見解なのです。


イスラーム教は、旧約聖書にも登場するアブラハム
(イブラーヒーム)が神に帰依していた頃の宗教が
あるべき姿であったとします。


ユダヤ教やキリスト教が「純正な形」で保存できなかった
アブラハムの「永遠の宗教」を、ムハンマドが元に
戻そう、と、そういう考え方であることが本書では示されます。


イスラームの寛容さと下心


日本でニュースを見ていると、イスラームは他の宗教への
攻撃が苛烈に見えますが、実はイスラームは、他の宗教に
帰依している人々に対しては寛容な宗教です。


イスラームでは預言者の教えに基づいて神を信ずる
人々を「啓典の民」と呼び、イスラーム支配下の領域では
人頭税を課税することはあっても、無理に改宗を迫ることはありません。


……というより、改宗されても、重要な税収源が減るだけ、と
この本では喝破されています(笑)。


さすがは商人出身の預言者が伝えた宗教だと思います。


そんな感じで、この本はイスラーム文化の構造をじわじわと
解き明かしていきます。今の中東を揺るがしている原因の
ひとつである、スンニ派とシーア派の対立も、アラブ系と
ペルシア系(イラン)の世界観の差に根差した、実根深くて
本質的なものであることも、この本を読むとわかります。


長きにわたるサウジアラビアとイランの仲の悪さも、
納得できるというものです(2016年2月現在で、両国の
関係はかなり悪いことを書き添えておきます)。


日本発、イスラーム原理主義


……で、もう一冊。

以前ご紹介した『イスラーム 生と死と聖戦』(第63冊)の著者である
中田考先生と、呪いの時代』(第2冊)内田樹先生の共著であります



一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教



伊藤博文もムスリムだった


本書では最初に、中田先生がどうしてイスラームに帰依したか、
また、その信仰・生活の実際について、スポットが当てられます。

その中でも面白いのは、イスラーム教って、
教徒になるのは完全に自己申告制、入信の言葉を
唱えるだけでOKなんだ、という話。


中田 明治の元勲伊藤博文は暗殺される直前に、ロシア革命で日本に亡命してきたタタール人で井筒俊彦の先生としても有名なアブデュルレシトにイスラームの説明を受け、彼の前でこの「ラーイラーハイッラッラー」「ムハンマドゥンラスールッラー」を唱え、アブデュルレシトからムスリムと認定されています。 また先日、ツイッターでムスリムになった人がいるのですが、やっぱりこの「アッラーの他に神なし」「ムハンマドはその使徒である」を唱えただけです(p38)

伊藤博文もムスリムだった、という事実!!

いや、イスラムの考え方に感じ入って、その時に入信の言葉を唱えて、「これでムスリムだね」とアブデュルレシトに言われた、というだけらしいのですが、まあ、ルール上はムスリムになったと言えるわけです。

神と個人との契約関係だけで信者となることができるので、
ツイッターで宣言するだけでも、まあ、問題はないということですね。

人は領域国民国家による分断を超えられるか



『イスラーム 生と死と聖戦』(第63冊)でも論じられていましたが、
中田先生は、イスラム世界を統合&拡張することによって、現在の領域国家を
超えた「自由な世界」の実現を提唱しています。


が、現状は当のイスラム国家同士が衝突を繰り返しています。

内田 みんな自分がいちばん正しいと本気で思っていますよね。
中田 思ってます。自分が正しいと思うあまり、それ以外はみんな敵だという発想につながってしまっている。例えば、スンナ派の人間はシーア派は裏でイスラエルやアメリカと組んで自分たちと戦っているという意識です。逆にシーア派はスンナ派はアメリカの手先でシーア派のイラン・イスラーム共和国を滅ぼそうとしていると考えています。みんながそういう発想になってしまったら目も当てられないのですが、残念ながらその傾向がアラブ世界全体に広がりつつあります。
(中略)
内田 宗教戦争じゃなくて、宗派戦争ですね。
中田 ええ、それをやめさせるために、まずあなたたちがまとまりまさいと一所懸命、私は訴えているのです。(p196、197)

この本が出版された2014年よりも、2016年2月の現在は、なお状況は
悪化しているとすら言えます。


イスラームの教えの根本じたいは、かなりよく出来たものであることは
上にご紹介した『イスラーム文化』と併読するとよくわかるのですが、
一方で、人間は美しい理論に基づいてだけでは生きられません。


この宗派間戦争は、イスラーム国家の支配層が既得権益を手放せない
(=領域国民国家ベースの資本主義から抜け出せない)こととも
密接に関係があることが本書では明らかにされていきます。


イスラーム思想があるべき形で実践されれば、領域国民国家という
枠組みを超えて、人間を真に自由にする道になるのだ、という
中田先生のある意味アナーキーなビジョンは、豚肉を愛する私には
全面的に賛同できるものではありませんが(笑)、それでも、国家ありき、
資本主義ありきの我々の世界観に強烈なパンチを見舞ってくれます。


そう、この本は、イスラームの事を論じているうちに一周回って、
我々の世界はどうなっているのか、ということを明らかにしてくれます。


今の自分、ひいては世界のありように言い知れない違和感を感じる
方は、ぜひご一読を。

2016/01/23

第86冊 魔術師グルジェフの、探求と金策の日々『注目すべき人々との出会い』


注目すべき人々との出会い: G.I.グルジェフ



20世紀最大の神秘思想家とも言われる、魔術師
グルジェフの、自叙伝的な本。


自分に影響を与えた人々に焦点を当てて、自らの
探求の日々を振り返っているのですが、この本の凄い
ところは、その旅の苦労話の合間に、お金に困った話、
それをどのように克服したか、まで赤裸々に語っている点。


グルジェフが何十年もかけて旅をするにあたって、とにかく
行く先々でお金がかかるわけですが、彼は旅先で
スッカラカンになっても、全くめげません。


ニセ骨董品工房の技術を盗んでバザールで
一山当てたり、スズメに色塗って珍種の鳥と
偽って高値で売ったり(そして足がつく前に
逃げる)、もう手がないからと紙細工を
作って売ったり、蓄音器がまだ市民権を得ていない

エリアで、蓄音機で音楽を聞かせるビジネスを
始めたり……。


思索と探求の日々を支えるための経済的基盤を、
グルジェフは自らの才覚と行動力で常に新しく
創造し続けることができたわけです。


これが、「超努力」を是とするグルジェフの凄みであります。


部屋の鍵を複製して、持ち主に秘密でエジプトが砂漠に
なる以前の古代地図をこっそり複写したり、
日本の柔術と、フィズ・レス・ルーなる謎の武術を駆使して
人のケンカに割り込んだのが縁で、旅の仲間を得たり、と
ほんとうにこれは、ひとりの人間の人生に起こったことかと
呆れるほどの色々があり、全く飽きません。


神秘思想にはあまり興味ないんだけど、という方も、
一種の「働き方」を模索する本として読んでも面白いと
思います。オススメです。

2015/10/08

第84冊&85冊 身体の中で何が起こっているか、トコトン見よう『関節内運動学―4D‐CTで解き明かす』『運動療法の「なぜ?」がわかる超音波解剖』

解剖学という学問は、人体に関する限り、
基本的には「死体解剖学(by 野口三千三)」であります。


人間の生体解剖は倫理的に問題がありますし、
解剖している時点で、人体は通常とはだいぶ異なる
挙動をしているかもしれないわけです。


人体を小宇宙(コスモとは読みませんよ)と見なす、
東洋医学的身体観が生まれたりするのも、
むべなるかな。


余談ながら、人間の身体の働きを、昔の中国では
「内景図」なる図で示していますが、ググってみると
面白いですよ。人の身体をこんな風に解釈してたのか……!
と。


さて、もとへ。


で、人類の技術の進歩が可能にしたのは、体の奥の、
関節や筋肉の運動を外から観る、という離れ技。


関節内運動学―4D‐CTで解き明かす
関節内運動学―4D‐CTで解き明かす


4D-CTは、今ではよく胎児の顔を見るのに
使われたりもする技術ですが、いやはや。

これは、関節の細かい動き(上腕骨は確かに
滑りながら転がってるなー、とか)がよくわかります。

AKAなんかで狙っているような「関節内運動(関節包内運動)」を
体の外から生み出すにはどうしたらいいか、というヒントになると
思います。


運動療法の「なぜ?」がわかる超音波解剖 [Web動画付]
運動療法の「なぜ?」がわかる超音波解剖


こちらも、超音波エコーの画像で、ストレッチや特定の運動によって
起きる、ナマでは見られない、筋肉のうごめく姿を見てやろう……
というコンセプトの本です。


4Dスキャンに比べると、モノクロな上に平面的なので、
本の解説なしだと解剖学を学んでいてもなかなかイメージ
しづらいですが、筋肉が、ウネウネビクビクユラユラと動くさまが
見えるのは、超音波エコーならではだと思います。


マッサージなどの手技療法はただ揉むのではなく、
筋肉そのものの動きを引き出し、邪魔しないことで、
まったく別次元のように効き方が変わりますが、
皮膚の下で動く筋肉のイメージを、この本で脳内に
焼きつけるのは、それなりに意味があるように思えます。





まあ、たまには治療屋らしい本を読んでますよ、ということで。