2014/12/20

第40冊 仏教、何となくわかってるつもりの人に 『仏教教理問答 連続対談 今、語るべき仏教』

仏教が、どうにも、いまひとつわからない、というご同輩に
オススメの一冊です。


評論家の宮崎哲弥さんが、仏教界の若手論客たちと
語りまくった一冊。


仏教教理問答: 宮崎哲弥: 本

この本の何が良いって、仏教が「わかった」って思ったら、
それは間違いなのだ、という諦めがつくことです(笑)。
ブッダは筏のたとえでいわれるように、「仏法さえも捨てていけ」と語ります。自分の教えの体系も捨てていけという宗教、ほかにないじゃないですか(笑)。これがけっこう効いている。だから、常に構築したものをはずして組み立て直すということを、仏教はずっと繰り返してきましたよね。異端をいかに内包していくか、消化していくか、仏教の歴史ってそういう歴史ですよ。(p70)

ずっと宙づりにされているようなしんどさがあって、結局そのまま着地させてくれない。ひょっとしたら宙づり状態こそ、仏教が人を育てている力じゃないか、っていう気もするんですよね。(p71)
ある意味でスッキリ、ある意味でモヤモヤする話です。

この宙づりに耐えるのが常人にはナカナカ難しいからこそ、
仏教発祥の地であるインドでは、神様の個性がハッキリ出て
現世利益もわかりやすいヒンドゥー教が台頭し、仏教が衰退
することにもなったのかもしれません。

 参考 → 第38&39冊 今も昔も超能力戦争だ! 『洗脳原論』&『性と呪殺の密教』

神秘体験を通じて、広告代理店勤務から仏教研究者になり
さらには出家した方(!)とか、あの恐山の住職(!!)とか、とにかく
ひとことで仏教者と言っても色んな方がいて、しかも仏教についての
考え方もかなり違っているというのが面白いところです。


そして様々な論者の発言から感じ取れるのは、仏教的な世界観の
豊かさ・深さ。


法事の時だけ仏教と付き合うなんて、勿体ない!

2014/12/17

第38&39冊 今も昔も超能力戦争だ! 『洗脳原論』&『性と呪殺の密教』 

オカルト系のネタが好きな人間として一度は
しっかりと向き合っておくべきだ、と思うのは、
やはりオウム真理教がらみの事件ですね。


平成生まれの子などにとっては
『どうやらそんな事件があったらしい』
という感じで、隔世の感がありますが。


さて、今回取り上げるのは、
そんなオウム事件がなければ書かれなかった
であろう二冊。

宗教における密教的な身体技法と教義の
「ねじれ」の問題、宗教の在り方についても
考えさせてくれる本で、続けて読むと面白いです。

 
洗脳原論: 苫米地 英人

 
性と呪殺の密教 怪僧ドルジェタクの闇と光: 正木 晃


『洗脳原論』は、オウム信者の脱洗脳で名を馳せた
(今は自己啓発本のほうで有名かもしれませんが)
苫米地英人さんの本。

洗脳のメカニズムとそれに対する脱洗脳のプロセスや
理念を、実体験を交えつつディベート理論やエリクソン派の
催眠技術などと絡めながら語っていて、面白いです。

この本の濃さに比べると、同じ著者の最近の自己啓発本は、
薄めに感じるくらい。



『性と呪殺の密教』は、仏教、チベット密教の研究者
として知られる正木晃さんの本。

セックスを通じて能力を開発していくという「性的ヨーガ」と
霊能力を用いて相手を呪い殺す「度脱(ドル)」という、
のちのチベット仏教では否定され戒められた技術を
使ってのしあがっていくドルジェタクの生涯は凄絶です。

インドでは凋落しつつあった仏教がチベットでいかにして
力を得たり、ヒンドゥー教と闘ったりしてきたか、という
あたりも宗教史が好きな人には面白いかもしれません。

ヒンドゥー教の神様が仏教に帰依したという見立てで
その力を逆手にとったり(シヴァ神→大自在天とか)、
ヒンドゥー教の神様の「天敵」を考案したり(閻魔大王
=ヤマより強い、という設定のヤマーンタカとか)、と
見ようによっては中二病の妄想合戦にも思えますが、
その妄想合戦でほんとうに人が死んだりするのが凄い
ところです。


その果てに、チベット密教、ひいては仏教、宗教の
在り方について問題提起して見せるという本です。


これらを読み比べると面白いのは、中世チベット密教の行法と
似た技術が洗脳/脱洗脳に用いられていることがよくわかること。

例えば、苫米地さんがオウム信者を脱洗脳する時の手法が、
正木さんの本でチベット密教の行者が敵を降していく際の
「霊能合戦」の手法と似ています。


そこで私は、昔から得意である抽象空間の視覚化、
さらに一〇年以上も訓練したディベート術を利用することにした。
変性意識状態への誘導は、気功師のように一切言葉なしなの
ではなく、言葉も使うし表情も使う。ただ私は、自分の中にできあがった
空間を相手にイメージとして示しながら話を進める。それが変性意識
状態の相手に伝わり、相手の視野のなかでも、同じような色や形が
ありありとイメージされているはずだ。(『洗脳原論』p78)
ドンナルワという名の密教行者が、ヴィクラマシーラ大僧院に
いいがかりをつけてきたヒンドゥー教の僧と、霊能をあらそった
ときのことである。ドンナルワが自らの守護女神として
ヴァーラーヒーを出現させて、外道が彼を殺害しようと
送りこんできた毒蛇を殺し、逆に相手を打ち負かしたところ、
外道が「それは自分の側の女神だ。なぜ仏教のほうに
あらわれたのだ」とひどく驚愕したというのである。
(『性と呪殺の密教』p61)

どちらも、乱暴に言えば、相手にありありと臨場感のあるイメージを
送りこんで「納得」させた側の「勝ち」ということです。

『陋巷に在り』の呪術合戦にも繋がる雰囲気がありますが、
現代の脱洗脳の専門家も、密教行者も同様の手法で
戦った、というのは非常に面白いです。

密教行者が霊能合戦をした時代と現代は、実はさほど
隔たっていない、ということなのかもしれません。

2014/11/25

第36・37冊 気合いも根性も不要で自分を動かす 『使える行動分析学』『人生を変える行動科学セルフマネジメント』

あなたは変われる、と高らかに歌い上げる本は
多いですが、自分なんてそうそう変わりません。


変えられるのは、行動だけ。


……と分かってはいても、できない。
三日坊主が羨ましい。
三日も出来てるんだから!


……と思うくらい、私はモノグサな人間で、
とにかく行動を先送りするのが得意。


「敵は引きつけて撃て」と戦争映画の軍曹殿が
言っていましたが、引きつけ過ぎて、たまに
敵が横をすり抜けていったりする……。


自らの行動力・実行力の無さ、低さを嘆き、
なんで、こんな簡単なことを日々こなすことも
出来ないのか…… とお嘆きのあなたは、
私と同じ穴のムジナですね。


理屈でわかっていてもあまりにも行動できないので、
『動物感覚』を読んで、動物の世界観から自分の感覚を
理解してみようとしたり、

 参考 →第1冊 人間だって動物です『動物感覚 アニマルマインドを読み解く』 

また、「天の神様の言う通り」に行動していた頃の人間の
精神の状態を知りたくなってみたり 、

 参考 →第7冊 神は、まだそこにいるのです 『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』
……と、まあ、傍から見ると大事なことそっちのけで延々本を
読んでいるように見られてますが、まあ、その通りですね。


さて、私がそんなモヤモヤの中で天啓のごとく
出会ったのが

「行動分析学」

……という学問。


心理学の一分野ですが、面白いことに、
意識とかココロの中身とかを問いません。


人間や動物の行動は、環境や、行動にともなって起こる
結果(随伴性)が引き起こす……といった視点の学問です。


つまり人間が行動できないのは、その人にとって気合いや
根性の問題ではない、ということです。


例えば、行動分析学者である島宗理さんの唱える、

個人攻撃の罠

という概念。


「われわれは何か問題が起こった時、個人の性格や資質の
せいにしがちだけど、それは問題解決において何の役にも
立たないよ」ということを指摘した言葉なのですが、これ、
もっと広まれば自殺者が減るのではないか
というくらいに素晴らしい考え方だと思います。


「自分の意志の力や気合いが足りないから事態が解決しないのだ」
と自分を責めることで問題が解決することはまずありません。


大切なのは、意志の力も気合いも根性もなくても、しかるべき行動を
とるような仕組みを考えていくこと。



自らをスッカリ根性無しのヘナ○○と思ってしまったご同輩には、
ぜひともご一読いただきたい2冊をご紹介しましょう。




使える行動分析学: じぶん実験のすすめ (ちくま新書): 島宗 理


上で紹介した「個人攻撃の罠」をはじめ、用語の難しい
行動分析学をわかりやすく、しかも実際に役に立つ形に
して紹介して下さっている島宗理さんの著書です。



用語や、具体的に何をするかが難しいと思われがちな
行動分析学ですが、この本に書かれた方法であれば、
実に具体的に、実に気軽に始められます。


この本のタイトルにある「じぶん実験」というのもまた
魅力的な概念で、

行動の諸原理や研究方法を学んで自らが自分の行動を
探求する力をつけること
自分にあったセルフコントロールやセルフマネジメントの
手続きを開発する方法を手にするということ
……を目的にしたものです。

要するに、「自分」というブラックボックスの動かし方を探索し、
実際に動かす方法を見つけていくための手引書、ということです。

紹介されている具体例も面白く、人間の行動がこんなことにも
左右されるのか!というのは驚きであるとともに、ちょっとした
救いにもなります。


人生を変える行動科学セルフマネジメント: 石田 淳


 こちらも名著です。


結果を導き出すのは「行動」しかありません。
どれほど強い意志があろうと行動なきところに結果は生まれません。
逆に意志は弱くても行動すれば結果は出ます。
わかりやすい「行動」にフォーカスすればいいのに、その前に
「意志」という極めて不明瞭で高いハードルを置いてしまっているのが、
今のあなたです。

しびれます。


『使える行動分析学』が、自分の行動のチェックの仕方に力点を置いている
のに対して、こちらは、具体的にどのような対策で行動を呼び起こすか、
という方法の具体例が紹介されており、2冊合わせると、最強です。


まったく片づけの出来なかった私が、これらの本のおかげで、
ある程度まで片づけが出来るようになっていますので、間違いなく
効果はあります。


心を燃え立たせる系の自己啓発が向かなかった方、
動けない自分が嫌いな方、変なセミナーやプログラムに
手を出すよりは、まずはこの2冊をおためしあれ。

2014/11/12

第35冊 成りあがれ!ナマグサ坊主忍者医師 『全宗』


全宗 火坂 雅志


恥ずかしながら、全宗という人のことは
サッパリ知らなかったのですが、

「信長の比叡山焼き討ちから命からがら逃げおおせた僧で、
その後、かの有名な曲直瀬道三のもとに弟子入りし
漢方医学を学んだ後、秀吉の主治医兼ブレーンとして活躍」

……と駆け足で省略しても面白い経歴なのですが、
本作では、その全宗が実は忍者の出であった、という、これまた
ユニークな着想からスタートしております。

「医術を足がかりに出世、当時の権力の中枢近くまで
上り詰めた」という意味では ある意味、弓削道鏡やラスプーチン
と同列に語られるのもやむなしですが、彼ら二人と、この小説で
描かれた全宗の決定的に異なる点があります。


 道教やラスプーチンが祈祷の力をもって病を治して権力者の心を
つかんだのに対して、全宗は当時の日本の正統医学である漢方を
つきつめて得た、オカルティックな要素を排した技術と、おのれの
智謀とで成りあがっていく点です。


そのあたりが、この小説の真骨頂でありましょう。


印象的だったのは、途中、全宗が師である曲直瀬道三に言われ
漢方を処方する際に、その場でわかりやすく効果が実感できるよう
処方をいじる「狡さ」や、もはや救えぬとなればアヘンによる除痛
さえ厭わず、また、それで大金をせしめても当然とするある種の「強さ」。


これを読んで思いだしたのは、『陋巷に在り』の医鶃という医者。
→第13〜26冊+α 顔回と孔子の呪術的世界『陋巷に在り』
あれもアクの強い医者でしたが、こちらも負けず劣らず。


ものすごく悪い奴(笑)なのに、医術への思いだけは真摯だったり、
年下の女性に惚れてぐらつくような、突然純情な面も見せたりする、
そんなあたりも本作の主人公の魅力ですが、そうした面と、秀吉の
ブレーンとして振る舞う点とが地続きになっているのが、本作の
魅力です。


上述の全宗の懸想する「年下の女性」の描写が、清楚なのになぜか
エロティックですが、この恋は、最強の恋ガタキに阻まれます。
そのことを、歴史的事件と結び付けていく流れなんか、素敵です。
ま、このへんは読んでのお楽しみ、ということで。


全く余談ですが、知恵袋の場合はブレーン、単純に脳を現す場合には
ブレインと書く場合が多いのは、何なんでしょうね。

第34冊 傾国と呼ばないで 『唐玄宗紀』

唐玄宗紀 小前 亮

「傾国の美女」というが、女ひとりで国が滅びはしない――
 
唐の九代皇帝、玄宗の一代期、なのですが、
中国歴史モノに無条件にアレルギーを感じる方にも、
これはぜひ読んでいただきたい作品です。 


玄宗というと、「皇帝の座にあるうちの前半は
善政を行うも、後半は楊貴妃とイチャイチャして堕落……
おかげで安史の乱が勃発、あわや亡国の危機……」
といったような評価がされがちで、かく言う私もそう思っていました。


が……、この作品は、宦官である「高力士」の視線に
寄り添いながら玄宗皇帝の苦悩やその周囲の権力闘争を
描くことで、玄宗皇帝や楊貴妃への、上記のような紋切り型の
解釈から目を洗ってくれる仕掛けになっています。


世界史最強クラスのバカップル(褒め言葉です) が
好きになること請け合いです。


また、一代期というのは歴史を順に追って行くことで
とかく退屈になりがちですが、 本作は、老境に至った
玄宗と高力士が当時を振り返る節がところどころ挟まれており、
それが箸やすめになるとともに、玄宗の人物像に奥行きを出しており、
非常に面白いです。


この玄宗と高力士のいちゃつくさまも、ある種の趣味を
お持ちの方にはご馳走かもしれません。そういう楽しみ方も
できるのが、本作のフトコロの深いところであります。


余談 本作を読んで……
 
玄宗と楊貴妃の関係を題材にした白居易の『長恨歌』は、
本邦の文学にも大きく影響を与えたと言われており
(『源氏物語』は、『長恨歌』への「返歌」である、という説も
ありますし、あの『ドグラ・マグラ』でもネタにされていたり
しますね)、文学系の学科出身者としては、一般教養として
それなりに知っているつもりだったのですが、 歴史上に
実在した人たちとしてはほぼ知らないに等しかったことが
よくわかりました。 玄宗、楊貴妃、ごめんなさい。

2014/10/26

第33冊 サン○ルの二番煎じじゃないんだぜ『選択の科学』

選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義 (文春文庫)

選択の全貌を明らかにすることはできないが、
だからこそ選択には力が、神秘が、そして並はずれた
美しさが備わっているのだ(単行本版p329)
24種類のジャムを試食できるようにした場合と、
6種類のジャムを試食できるようにした場合とを比較すると、
前者の売り上げは後者の10分の1しかなかった……
というような、著者を有名にした実験を皮切りに、
選択というものに実に色々な角度から焦点を当てた本。


「コロンビア大学白熱教室」という番組があったもので、
漠然と、サンデ○さんのやつが受けたから出たドジョウ本
なのかな、と思って何となく避けていたのだけど、
読んでみたら面白い本でした。


不自由でもストレス、自由すぎてもストレス

選択の自由がないことはストレス。
でも、選択の幅がありすぎてもストレス。

本書は最初、動物実験の結果などから、動物園の動物が短命な理由を
選択の自由がないことと喝破。人間についても、あまたの例から、

人々の健康に最も大きな影響を与えた要因は、
人々が実際にもっていた自己決定権の大きさではなく、
その認識にあった(単行本版p35)

フランクル博士の『夜と霧』みたいに、自分の認識の枠組みを
変えて、外的な刺激とそこから起きる自分の反応との間にスキマを作れ、
とはかの有名な『7つの習慣』でも習慣以前の大前提として述べられていましたが、
本書の面白いのは、自己決定権が大きすぎることもまた負担になることを
示したこと。

東ドイツ住民はなぜ昔を懐かしがるのか」といった章に書かれた話や
冒頭のジャムの例は、自由の「功罪」を示しています。

そういえば、『神々の沈黙』でも神の声が聞こえるのは意思決定のための
葛藤がストレスだから、という話がありましたね。

  →参考:第7冊『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ


自己啓発本のパターンは国によって変えるべき?


意思決定の範囲の広さがどれくらいだと心地よく感じるか、は
文化圏等によっても影響を受けるようで、例えば、日本人とアメリカ人とでは
何を自己決定したいか、と聞くと上がってくる項目の数が四倍も違う、という
実験結果が紹介されています。


結婚についても、著者であるシーナ・アイエンガーの両親は結婚当日まで
お互いの顔も知らなかった、家族同士が取り決めた結婚であった、という
例を出しながら、必ずしも個人主義的な結婚ばかりが良い訳ではないことを
示します。

例えば、インドでは恋愛結婚の離婚率は、お見合い結婚の離婚率の10倍と
いう数字になるそうです。
※個人的には、その要因は、恋愛結婚での幸福感は時間とともに下がりやすい、という以外にも、自分で望んで恋愛結婚をした人は、自分が望まぬ方向になってきたからその状態を解消する、という選択を行うだけの決断力がある、ということの影響があるとは思いますが。

アメリカ式の自己啓発本は、多く、おのれの人生のビジョンやミッションを
明らかにせよ、決意せよ、というパターンが多いですが、もしかしたら、あの
「自分で何でも思うように決めろ」という方向は、日本人の多くには合わないの
かもしれません。

決めるのは誰の意志?


やむを得ない選択、周囲に流されての選択でも、
人間の奇妙な脳は、それは自分が望んでした選択だ、
と思うようにアッサリ記憶を加工してみせます。

たとえば、仕事について、本書ではこんな研究結果が披露されます。

過去の優先順位を正確に思いだせなかった人ほど、自分の選んだ仕事に対する満足度が高かったのだ。このような幻想で自分を守ったおかげで、自己矛盾を認識せずに済み、初期の調査時に自分がつけた優先順位に義理立てする必要を感じずに、今この瞬間の優先順位に沿った選択ができたのだ(単行本版p127)
大した機能です。

こんな具合に、「選択」にまつわる研究は、ある意味、人間の弱さや強さ、
賢さや愚かさを浮き彫りにしていきます。本書で紹介されている、
ガン撲滅運動のイエローバンドを用いた実験なんて、かなり「残酷」な
実験なのですが、これはぜひご自分で読んでみてほしいです。

家族知人友人、そして何より自分の選択や行動に、ちょっと寛大になれるかも
しれません。


2014/10/10

第29~32冊 働くってどんなことか考え直す 『シャドウ・ワーク』『ナリワイをつくる』ほか2冊

テレビなんかで働くことについての番組を観ると、だいたいが
以下のふたつに分類できるような印象があります。

①仕事に命を燃やし、邁進する個人や企業についての番組
(カンブリア○○とかプロフェッショ○○とか)

②仕事をめぐる制度と現状の解離(長時間労働、妊娠出産との
 兼ね合いや、いわゆるブラック企業問題など)についての番組
(ニュース番組の特集とか教育テレ○の討論番組とか)

いつも違和感を感じるのは、どちらも、それを見る多くの人に
とって、あんまり地に足がついた感じがしないんじゃないかなぁ、
ということです。


働くことについて、だいたい皆さん何らかの悩みがあるのでは
ないかと思いますが、おそらく①も②もその「解消」のためには
役立たないことがほとんどだと思います。

 
①の番組に出てくるプロフェッショナルのように自分の仕事に
情熱を傾けるほど、いまの自分の仕事を愛せているのか、と
言われると、多くの人はうーん、どうでしょう、と唸るのでは
ないでしょうか。愛せよと言われてナカナカ愛せるものじゃない
ですしね。

さりとて、②のように、制度上の問題提起をされて、それは
問題だ、と思うまではいいですが、じゃあ、この「わたし」は
何をどうしたらええんじゃ、という話になるわけです。


今の仕事の中に何かを見出すのか。
別の仕事を探すのか。
そんなことをお悩みのあなたに。
今回は、働くことについて考える時に読んで良かった本と、
逆に読んでエライことになってしまった本をご紹介しましょう(笑)。

人生を盗まれない働き方 『ナリワイをつくる』





各所で話題になっていたのでご存じの方も多いかと
思いますが、オススメの本です。続編も出ていますし、
近い将来文庫化もされるかもしれません。

月収30万稼げるキツイ定職に懸命にしがみつくより、
月収3万程度の仕事(これを、本書ではナリワイと
呼んでいます)を10個確保するような生き方を提案
した本です。

まとまった収入を稼げる仕事というのは、実は競争の
激しい仕事であることが多いため、そうした競争に
向かない「非バトルタイプ」の人はすり減ってしまう、と
著者である伊藤さんは自身が医療系ITベンチャー企業で
働いて消耗した経験から分析し、それに対する
生き方≒働き方の提案として、「ナリワイ」を提唱します。

大手旅行代理店ではまず企画不可能と思われる
「モンゴル武者修行ツアー」や、使われなくなった
木造校舎を使った「婚礼プロデュース」、縄文式
発火法をマスターしたアイドルを売りこむ
「火起こしアイドルのマネジメント」など、様々な
アイデアをナリワイとして結実させたり失敗したり
している様が赤裸々に描かれます。

最低限幾らあれば生きていけるか、
何が得意か、何をしたいか、というところから、
小さなナリワイを作り育てていくという考え方は、
会社勤めしながら副業を育てる時にも使える考え方ですし、
思い切って会社を辞める際にも無理のない計画を立てる
時にも使える考え方です。

あくまで、無理な頑張りはいりません。

このまま会社ですり減って死んじゃうのかな、
みたいな絶望を感じたことのある方は、ぜひ手にとって
いただきたいです。

この本で示されているのは、あとで紹介する『シャドウ・ワーク』で
提起されている問題に対する、ひとつの処方箋だと思います。

仕事を我がものにする 『自分の仕事をつくる』




「働き方研究家」西村佳哲さんの本。

働き方について考える本としては、もはやスタンダードと
いってもいい本です。

「いい仕事」をしたり、仕事を「自分の仕事」として行うための
 ヒントを、現場に訪ねた本。

……と書くと、最初に挙げたテレビ番組のパターンの①に近いのでは、
と思われるかもしれません。

実際、この本のレビューでも、登場する人の職業や働き方が自分の
職業と隔たっているのでいまひとつ参考にならなかった、という意見も
見受けられます。

確かに登場する人がプロダクトデザイナーや建築家といった方が多いので、
いやいやそんな世界の話を聞いたって……と思う気持ちもわかります。

ですが、この本の一番美味しいところは、そうした人々の働き方から
西村さんが抽出しようとしているエキスです。

もちろん会社で働くことと個人で働くことを、対立的に
捉える必要はない。要は仕事の起点がどこにあるか、にある。


私たちはなぜ、誰のために働くのか。そしてどう働くのか。
「頼まれもしないのにする仕事」には、そのヒントが含まれている

と思う。
この本のコアとなる概念は、「自分で自分の働き方をデザインする」という
発想です。自分が仕事に何を求めているかを抽象化して整理するために、
この「西村哲学」に触れる価値はあると思います。


ドラクエ世代向きの労働観?
 『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』


 

タイトルからすると、ガンガン煽ってくる自己啓発書に
見えますが、読んでみるとかなり淡々と論理的な、
しかも地に足のついた本です。

ユニークなのは、『資本論』『金持ち父さん貧乏父さん』
という、まさにお金に関する本に書かれた理論を下敷きに、
お金を目指さない働き方を提案している点です。


『金持ち父さん貧乏父さん』は、「勝手にお金を生んでくれるもの」を
資産と呼び、こうしたもの(株式なり、不動産なり)を増やしていくことで、
「稼ぐために働く」ような「ラットレース」から抜け出すことを
唱えた本ですが、『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』
では、知識や経験、技術をある種の資産と見なします。


ものすごく大雑把に言えば、目先の現金になろうとならなかろうと、
「経験値稼ぎ」ができれば良しとする考え方もありじゃない、と
いうことになります。


これ、労働や苦しみに金銭的対価があるのが当然と思ってしまう
から、働くのが辛かったり理不尽だったりするわけで、例えば
無給薄給状態の徒弟なんて、知識や経験が身につかないのでしたら
ただのブラック企業社員状態ですし、 逆にこの考え方で自分なりに
納得できるならば、ある種の修行やノウハウ蓄積のためにブラック企業
で働く、という選択だってアリなのです。

……という結論そのものは、実はそんなに目新しいわけではないですが、
経済的な理屈の積み重ねから、非経済的な「資産」の
積み上げを 推奨するという切り口が面白いです。


自分の生がどんなシステムに絡めとられているのか
 『シャドウ・ワーク』

   

さて、ある意味今回ご紹介する中ではジョーカーとも言える
本です。独特な用語や論理のスキップが多いので、
様々に語られる本です。

なので、私の紹介の仕方にも「その理解では浅い、間違っている」と
思われることがあるかもしれませんが、そのあたりが気になる方は
コメントででもご指摘いただければ幸いです。

著者のイリイチという人は、特定の肩書きにおしこめるのは難しい
人で、作家であり神学者であり歴史学者であり社会学者であり……
とにかく面白い人なのですが、私の理解する範囲では、
先人たちの築いてきた諸制度が今度はその構成員たちの生を
いかに絡め取り、制限してしまうか、ということに深く危機感を
抱き、警鐘を鳴らした思想家です。


「ジェンダー」という概念や「医原病」といった概念は、イリイチが
提唱したものと言えば、その業績の凄さが少しは伝わるでしょうか
(いずれの概念も、今日ではイリイチの問題意識からはだいぶ
ズレた使い方をされているように感じますが)。

この本は数本の互いに独立したエッセイからなりますが、その中で、
表題でもある「シャドウ・ワーク」という言葉は、

「産業社会が財とサーヴィスの生産を必然的に補足するものとして要求する労働」

……と定義されています。その代表例が、家事であったり、介護で
あったりするわけです。

で、そういったものの一部がさらに分断され、金銭により外注可能な
サービスとなっていくわけです。


その際にその分断の境目にあった「何か」がこぼれ落ちていくことで、
人の生き方は、本来そうであったものから遠のき、制度に仕えるための
ものになってしまう、という点をイリイチは問題視しているのです。
 
「主婦の労働は、賃金に換算するといくらいくらなのだから、
もっと大事にすべき」という類の言説はよく聞かれますが、これは
イリイチの問題意識のきわめて浅いところしかなぞっていない。

むしろ、金額に換算して表現されないと労働を実感できない
というのは、人の労働を推し量る尺度までもが、経済原理・貨幣制度に
絡め取られてしまっていることの証でもある
わけで、生まれながらに

そうした社会にいる我々にとっては、おそらくトコトン根が深い問題
なのです。


この本より前に紹介した3冊ではモヤモヤが解消しきれなかった
方には、一読をオススメいたします。

……もっとモヤモヤするかもしれませんが(笑)。

これ読んでモヤモヤしたら「第4冊 偉人の父は、エラい奴だった 『夢酔独言』勝小吉」でも
読むといいかもしれません。

なぜイリイチの本がわかりにくくなるか、ということは結構重要な問題で、
それについても私見はあるのですが、長くなりそうなので、稿をあらためて
書きたいと思います。

2014/10/09

第27&28冊 中国人の「古代妄想」に触れる 『孔子伝』&『字統』

白川静という学者の名前をご存知の方も
多いかと思います。

甲骨文・金文まで遡っての漢字研究で有名な
碩学。

余談ですが、学生運動華やかりし頃、立命館大学が
全学封鎖となっていた中でも、淡々と研究室で研究を
続けていたそうで……何とも頭が下がります。

新訂 字統

白川静さんの手になる辞書『字統』、私も学生の頃に読みふけって
いましたが(思えば贅沢な時間の使い方でしたねぇ)、
何が面白いって、漢字のルーツが古代呪術であることを
これでもかこれでもかと見せつけ、古代の中国人の世界観を
生き生きとした形で示してくれることです。


表意文字である漢字を使う国に産まれた事を感謝したくなる
面白さです。


言うなれば、「古代妄想」の結晶であります。
妄想という言葉を使っていますが、バカにしているわけではなく、
当時の人々の世界観としては一本筋の通った……というか、
それこそが彼らの「世界」であり、リアルだったわけです。


例えば、就職の「就」の字が、犬を磔にする古代呪術を
示す字である、と。そんな凄まじい字だったんか!と
驚かされます。


犬は呪物としてはかなりメジャーな存在だったと考えられるようで、
前にご紹介した『陋巷に在り』でも、ちょいちょい生け贄として
使われています。

 →参考:第13〜26冊 孔子が戦い、顔回が舞う『陋巷に在り』


余談ながら、私が愛してやまない夢野久作という作家の
エッセイ(夢野久作全集〈11〉 (ちくま文庫) 所収)によると、
近世まで犬を使った呪術というのは本朝にもあったようで、
犬を首だけ出して地面に埋めて、食事をギリギリまで与えず、
その後食べ物を見せてキチ○イのようになったところを
すかさず首を刎ねたものを触媒として使う、という何とも
スサマジイものだったようです。

そんな、漢字から古代中国人の考え方を読み解くという離れ業
をやってのけた白川静さんが酒見賢一さんにインスピレーションを
与えたであろう本が『孔子伝』です。

孔子伝 (中公文庫BIBLIO)

呪術がまだ「力」を持っていたであろう時代に、
孔子はおそらく巫呪を行う一族の一員として産まれた
のではないか……


そんじょそこらの小説はだしの着想から描かれた孔子像は、
十ウン年前にこの本を初めて読んだときまでに私が抱いていた、
何とも説教くさい孔子像を完膚なきまでに吹き飛ばしてくれました。


漢字と古代史の研究から、ひとりの、実際に生きた人間としての
孔子があぶり出されてくる様は、一種の推理小説のような面白さで、
『陋巷に在り』の参考資料の筆頭にあげられていたのも、
よくわかる気がします。

ちなみに、この白川静さんの二冊の本を読んでから、
『身体感覚で『論語』を読みなおす』を読むと、また
一段と面白いです。


 → 参考:第8冊 四十にしても惑いまくり! 
   『身体感覚で『論語』を読みなおす』安田登


孔子とか儒教にアレルギーのある人こそ読んでほしいなあ、と
思います。


余談ながら、孔子の末裔のひとりは日本でラーメン屋を営んで
いるそうなのですが……
http://snn.getnews.jp/archives/423777

第13〜26冊+α 顔回と孔子の呪術的世界『陋巷に在り』

歴史小説? 幻想小説?
なんと分類したらいいのか。

陋巷に在り〈1〉儒の巻 (新潮文庫)

この本については、全巻読破したら書こう、と
思っておりましたが、とうとう書ける時が来ました。
しみじみとした感動があります。全13巻。結構
読んだなあ……。

中国の歴史書で史実とされていることの隙間や謎に
納得できる答えを用意する<歴史小説>として。

その隙間でこれでもかと登場人物たちが権謀術数や
呪術をつかって戦う<伝奇小説>として。

当時の人々の信仰や生活を通して現在の今・ここ・
われわれについて考えさせる<現代批評>として。


どんな切り口で読んでもとにかく面白いです。


この小説の舞台は春秋戦国時代。
かの孔子が、まだ魯の国の政治家だった頃の話。
主人公は孔子の愛弟子として名高い顔回。


この顔回、『論語』を読む限り、孔子をヨイショする
発言をして孔子を喜ばせる以外はさしたる活躍を
していない人なのですが、『論語』では孔子は彼のこと
を大絶賛しています(「一を聞いて十を知る」という
表現も、元は孔子が顔回を評して言った言葉)。


なんで、この顔回に孔子はメロメロなのか。
『論語』読者には、いまいち釈然としないところですが、
この小説、そんな問いに対してもある種の答えになっている
のです。


■サイキック孔子伝!?

さてこの小説、売り出される際に、

「サイキック孔子伝!」

なるフレーズを冠されておりました。
完全に超能力バトルものを思わせるフレーズです。

この小説では、礼がまだ呪術から分たれていない
時代、というものが舞台となっており、この呪術
合戦が、確かに超能力バトルといえばいえなくもない。

この頃の時代の中国人の世界観というものに触れたければ、
白川静さんの著作に触れるとなお楽しめるかと思います。

 → 参考:第27&28冊 中国人の「古代妄想」に触れる
   『孔子伝』&『字統』

でも超能力によるバトル、と聞くと、現代の日本では、
小説よりもマンガやアニメで触れる機会のほうが
多いかもしれません。

サイコキネシスで相手をぶっとばしあい、壁に
球状のヒビがビキっと入る大友克洋作品のようなものや、
各人固有の特殊能力を使って戦う荒木飛呂彦のジョジョ
シリーズのような異能合戦みたいなイメージが強いですが、

AKIRA(1) (KCデラックス ヤングマガジン) ←サイキックといえば大体このイメージですよね。

 この『陋巷に在り』で描かれる超能力は、言っては何ですが、
見た目にはもっと「地味」です。


呼吸によって相手を惑乱。
呪物によって敵の侵攻を遅らせる。
話術によって相手を誘導する。
女子によって敵を誘惑。


でも「地味」とあなどるなかれ。


周囲の景色がじわりじわりと別の貌を見せ始め、
気づくと別の世界に迷い込んでいる恐ろしさ。

人の心や行いが、本人の思わぬうちに
蝕まれていく怖さ。

術をかけた側、かけられた側の微妙な精神状態の
変化が、その戦いの帰趨を決する。

そんな部分の愉しさは、この作者の筆によれば
こそでしょう。

舞楽を通じた神との交信なんて、これはなかなか
他の手段で表現するのは難しいよな、と思わされる
描写です。

さりとて、神と人がまだ近かった時代の精神状態ならば、
さして荒唐無稽とも思われない、丹念な描写です。

 →参考:第7冊 神は、まだそこにいるのです
 『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ

本来の意味での「サイキック」ならば、確かにその
微妙な心理描写を評するのにウソではないのです。


マンガやアニメに生まれながらにして触れている
世代からすると、「サイキック」と聞くだけで、
孔子が念力で人を吹っ飛ばしたりするような絵を
想像してしまいますが、そんなことはないです
(あ、でも孔子はフツーに腕力で武装した兵士を
吹っ飛ばしてます。そのへんもお楽しみに)。


■ものすごく「具体的」なファンタジー
とにかくこの作品では、その呪術合戦が陳腐に
ならないような工夫が随所に見られます。


呪術による超常現象が起きても、物理現象が
ねじ曲がるようなことはないように、
あくまで心理現象として術の効力が及ぼされる
ように、相当な配慮がされています。


また、用いる道具や方法、その技術を可能としている
原理、というものが執拗なまでに説明されています。


だから、もしかして現在、丹念にその術の理論体系を
学ぶ手段があれば、自分でもこの術を使えるように
なってしまうのではないかという妙なリアリティが
あるのです。


余談ながら、このあたり、酒見さんの
エッセイ集『中国雑話 中国的思想』の中で、
仙人になるための技術が異常に細かく
マニュアル化されている『抱朴子』について
触れられているところと重ねると、ちょっと面白いです。
中国雑話 中国的思想 (文春新書) 抱朴子 (岩波文庫)


例えば、催眠術に多少なりとも興味のある方ならば、
言葉を使わない現代催眠術の掛け方の基本の
基本として、呼吸のリズムを相手と合わせる
というものをご存知かもしれませんが、
そうしたノウハウも術の掛け合いの描写の中に
緻密に織り込まれており、スキな人はニヤリ
とできること請け合いです。


またまた余談ですが、現代催眠術の具体的な
ノウハウをざっと知るには、こんな本も面白かったです。
洗脳護身術―日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放

著者はかの有名な苫米地英人さん。
毀誉褒貶も激しい方ですが、この本は
べらぼうに面白いです。


■言葉を使う「呪術師」としての覚悟

小説の筋書きをアレコレ言うのは野暮なので、
まったく別の切り口から。


私はこのシリーズを文庫で読みましたが、
そのうちの何冊かにはあとがきがついています。


そのあとがきのひとつに、神戸連続児童殺傷事件、
通称酒鬼薔薇事件』について触れられたものが
ありましたが、本編もさることながら、この
あとがきが圧巻でした。



あの事件、犯人がマンガやアニメの影響を受けて
いた、とは早くから言われていた事です。


「マンガやアニメがそんな影響を及ぼすと
やり玉にあげられるのは心外だ」……と
多くのクリエーターならば言いそうですが、
ここで酒見賢一さんの言う事は違います。


要約すると、小説の影響、と誰も言わない
ことが不満なのです。小説が、それだけの
影響力を持つメディアたりえないことが、
不満なのだ、と。


別に犯罪の起爆剤になればいいな、と
言っているわけではないところに
注意すべきですが、そうなるかもしれない、
と思われるような「毒」というか、何か
とんでもないもの……暗がりを覗かせる
ような「力」を、小説に持ってほしい、
いや持たせてみせる、という決意表明と
受け取りました。


『陋巷に在り』では、古代の礼の滅び、
呪術の凋落が描かれていますが、
新興メディアがすでに深く根付きつつある
現代に、文筆の力のみ、文字だけで書かれた
もので、時空を超えて読者は喜怒哀楽と
振り回してくれる小説というものは、
考えてみればこれも立派な呪術とも
言えるわけです。


『身体感覚で『論語』を読みなおす』では、
ある物を移動させるとして、礼を尽くして言葉にして
力持ちの人に物を運んでもらえるのだったら、
それは念力で移動させるのと同等以上の呪術ではないか、
という意味合いのことが書かれていましたが、

 → 参考:第8冊 四十にしても惑いまくり! 
   『身体感覚で『論語』を読みなおす』安田登

もしそうだとすれば、様々なメディアが登場し、言葉を容易に
複製し、バラまき、遺す事ができる現代は、もしかしたら
史上最も呪術的な時代なのかもしれません。

 → 参考:第2&3冊 disる言葉が、今日もどこかで増えてます
   『呪いの時代』内田樹 & 『虐殺器官』伊藤計劃

呪術師、酒見賢一さんの更なる活躍を
祈ります。


蛇足ですが、この小説の中盤以降に、
ケレン味たっぷりな医鶃という医師が登場し、
呪術や体術、様々なハッタリ(!)まで使って
治療を行いますが、このあたりの描写や、
彼の術や生き様に対して加えられる酒見さんの解説、
また、現代の代替医療に対する考察などは、
私のように怪しい技術で人様を施術してお金を
いただいている人間は一読の価値ありです。



2014/10/05

第11冊&12冊 もっと人の足下を見る『足の反射療法』&『症例別足もみ療法』

足の反射療法 症例別足もみ療法―1日15分で効果テキメン


■耐えられる痛みは痛みじゃない?
『足裏は語る』と『体癖』を読んだせいでおかげで、
足裏の状態と体の関連を掘り下げてみたくなりました。

ということで、二冊ご紹介。
『症例別足もみ療法』と『足の反射療法』です。

『症例別足もみ療法』の著者、鈴木裕一郎先生は、
靴屋としてドイツのシューマイスターの資格を取得後、
前回紹介した『足裏は語る』の平沢弥一郎先生のもとで
足裏研究の「弟子」となったうえに、今度は中国で
「観趾法」なる足裏療法を学んで帰国した、まさに
足のスペシャリスト。


一方の『足の反射療法』は、プロ仕様の足裏施術の
方法を紹介した本で、近代の足裏療法の祖、米国の
イングハム女史(なぜか、この方は女史をつけて呼ばれる
ことが多い。慣例?)の流れをくむ、ドイツ式の足の
反射療法の本を翻訳したもの。


フットリフレクソロジーの店が至る所にある日本では慰安の
イメージが強く、「治療に用いるもの」というイメージは
あまりない、というのが実情でしょう。


……が、この両書では、かなーりの厄介な病気まで、
ひたすら足を揉み倒すことで治療しています。

『足の反射療法』では、

患者が耐えられる痛さになるまで揉む

という記述がさらりとなされていました。


ってことは、体が悪い場合、施術時間の多くは、
耐えられないような痛み……なわけです。


足ツボ療法は、実際に受けに行った人の話を聞く限り、
メチャクチャ痛いとか、いや気持ちいい程度
だったとか、店や術者、受け手の体調によって
色々な場合を聞きますが、おおむね痛い事自体が
一種のエンターテイメントのようにして
受け止められていることが面白い。


■なぜ足ツボ療法はかくも広まっているのか

曲がりなりにも手での治療をナリワイにしている身からすると、
治すのが目的ならばケチケチせずに、足裏以外も狙って
施術すればいいじゃない、とも思ってしまいますが、
短所と長所は背中合わせ……。


マッサージ師の国家資格を持たない人がリラクゼーションの仕事を
するにあたって選択するには、かなり気の利いた治療法なのでしょう。


なぜなら、足裏揉むだけでは、なかなか重篤な副作用や施術中の事故は
起きづらい(はず)なので。


また、反射区と体の関係が究極的には実証されていない以上、例えば、術後に
内臓の調子がおかしくなっても、術者は「でも足裏しか押してませんよ?」
と居直ることも、できなくはないわけです(どう思われるかはさておき)。


クレームをつけられる可能性が低い手法である、ということは、
経営する、という観点から言えばかなり重要なことですよね。


■セルフケア法のひとつ

あと、足裏療法の何がいいって、自分で自分に出来る事です。


『足の反射療法』は足裏を使った治療法がまだまだ市民権を
得ていない頃に書かれた本であるせいか、自分での施術を
あまり勧めていませんが、『症例別足もみ療法』ではむしろ逆。
自己治療をとことん推奨しております。


……まあ、鈴木先生は治療そのものは生業ではないですから、
そう書けるのかもしれません。


反射区がそこまで人の体の全体を反映しているのか?という
疑問は相変わらずですが、理屈が正しかろうが誤っていようが、
実際にそれなりの効果を実感できている人が少なからずいるのは
間違いなさそうなので、しばらく自分の体で実験してみようと
思います。

2014/09/13

第9&10冊 足から人を観た探求者たち 『足の裏は語る』&『体癖』

足の裏は語る (ちくま文庫) 体癖 (ちくま文庫)

奇しくも、どちらもちくま文庫です。


妙にマニアックな身体論、身体哲学についての本が
出版されるのは、筑摩書房にはきっとそういうのが
大好きな編集さんがいらっしゃるんでしょう。


『足の裏は語る』の著者、故・平沢弥一郎先生は、
「足の裏博士」の異名をとる著名な医学博士で、
人間の足の裏をひたすら計測・研究して50年
その数は何と40万人以上

本書の中でも、男性がタマとサオをズボンのどちらに
入れるのが定位置か、と二千人以上のスポーツマン相手に
検証したり、排泄時の重心変化について女子大で調査したり、
まあ、変態です(褒め言葉です)。


一方の『体癖』の著者、故・野口晴哉先生は、
整体の指導者。整体という言葉が人口に膾炙する
ようになったのは、この方の働きあればこそ、でしょう。

 本書を読めばわかりますが、実は野口先生も、
足の裏の重心配分を測定できる機材を用いて、
「体癖」(野口先生の造語。人間の体の構造や感受性の
類型を12種に分類したもの)研究の一助としたようです。
この方は、一日に百人以上も整体指導したとか。
やはり変態です(褒め言葉です)。


面白いのは、この二人の研究が、ときどき交差すること。
その「交差点」にある考え方は、足裏への重心のかかりかたと生き方、
個性などにある程度の相関があるのではないか、ということです。

心と体は繋がっている……ではなくて、本来境目なんかないって
ことです。ひとことでいえば「心身一如」。

『足の裏は語る』では、

足長を百とした場合重心の位置が、
二十年前は踵から四十七パーセント周辺にあったものが、
最近ではその位置が四十パーセントあたりまで後退してきた

(『足の裏は語る』p96)
……とありますが、それは別に、人が徐々に体を使わなくなっているから、
ではなくて、気の持ちよう、「気構え」、即ち希望を抱いて行動する性質が
落ち込んできているからではないか、という仮説を提示します。

「何だよ、結局は精神論かよ」と侮るなかれ。
この平沢先生、精神状態によって足の裏のコンディションが
どう変わるか、まで延々と観察してきた人なのです。

女性の精神状態があまりよろしくない場合に、小指側が浮く……
といった話が、本書にも登場します(おそらくは、奥様が最初の
実験台だったのではないかと邪推します。余談ですが、本書では、
平沢先生の亭主関白な振る舞いに奥様がキレて、それまで
日々お子様の足裏を記録し続けていた資料を全部燃やしてしまう、
というエピソードまでぶちまけられていて、素敵です)。


野口晴哉先生の「体癖」に至っては、もはや個性と体の状態は
イコールという考え方で、『整体入門』という本には、性格を体操によって
変えられるのでは、という発想まで登場しています。

本書でも、整体指導を受けに来た人たちの体を見て、
「この人は●●種体癖だから、きっと、逆の事を言った方が
言うことを聞くな」みたいなことを考えて指導して結果が
出た話を自慢……もとへ、披露しています。


10歳差くらいの方々なので、いっそのこと共同研究ができていたら
さぞや面白かったろうと、後世から勝手に思うのでありますが、
それぞれの本からうかがえるそれぞれのキャラクターを思うと、
まあ、たぶん組むことはなかっただろうし組んでもすぐケンカ別れ
しそうだなぁ、とは思います(笑)。

人をこんな風な切り口で捉えるのもアリなのか……と、
二冊とも非常に楽しくて目からウロコでした。


余談

こちらの『姿勢のふしぎ』でも、姿勢と精神状態の
関係は論じられています。自閉症の人は重心がランダムに
動揺しやすい、みたいな話もあり、『足の裏は語る』や『体癖』と
ともに読むとまた面白いかもしれません。


姿勢のふしぎ―しなやかな体と心が健康をつくる (ブルーバックス)

『動物感覚』の著者で本人も自閉症のテンプル・グランディンが
「抱きしめ機」と自閉症について自著で語っていますが、皮膚感覚とともに、
重心の動揺がなくなる、というのも重要だったのかもしれません。

 → 参考:第1冊 人間だって動物です『動物感覚 アニマルマインドを読み解く』







2014/09/09

第8冊 四十にしても惑いまくり! 『身体感覚で『論語』を読みなおす』安田登


身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から: 安田 登

能楽師にしてロルファー(※ロルフィングというアメリカ発の
ボディワークの施術者)でもあり、漢和辞典編集にも関わった
ことがあるという著者が、孔子が活躍していた頃の漢字の字形、
甲骨文・金文までさかのぼり、漢字に込められた身体イメージから
新たな『論語』の読みを提案してみせる、という野心作。


四十になっても、多分、惑ってたっぽい


面白いのは、「心」という字が、孔子の時代はまだ五百年程度の
歴史しかなく、現在の「したごころ」や「りっしんべん」に
当たるパーツを持つ字が、ほとんど存在しなかったこと。



その一例が「惑」です。


カンの良い方は、この時点で「えっ!?」と疑問に思ったかも
しれません。そう、『論語』でも有名な、

「四十而不惑

の「惑」の字は、孔子存命の頃、まだ地上に存在していなかったのです。


では当時、いったいどういう意味で(どのような漢字をイメージして)孔子は
この言葉を語ったのか、というところで、著者は、それは「或」という字だった
のではないか、と推測します。



仮に「境界によって区切ること」を意味する「或」を用いて

四十而不或

と述べていたとすると、

「そんな風に自分を限定しちゃいけない、
もっと自分の可能性を広げなきゃいけない」
(p23)

……という意味になるのです。


全然違うやん。

安田説がより正解に近くて、新たな可能性を探り続けて
いたとしたら、もう、惑いまくりだと思います、孔子。




「惑」を皮切りに、当時まだまだ新興の概念だった
「心」というものとの付き合い方が、現在のわれわれと
違ったのではないか、という風に論を進めて、
『論語』とは、「心」の取り扱いをはじめてマニュアル化
したものなのではないか、と論じます。


著者は、自分が能楽を修行した経験と、漢字研究の成果を
それぞれ駆使して『論語』を「心」の操縦マニュアルとして
読み解いていきます。


漢字を通した、当時の世界観への言及などもありつつ、
前回、当ブログでもネタにした『神々の沈黙』も引用されており、
構想としては、おそらく「近東に限って話をしている」『神々の沈黙』への、
東洋からの「返歌」を目指したのではないかと思われます。


確かに、甲骨文や金文の漢字のデザインから見え隠れする古代中国人たちの
世界観は、意識が「比喩から生まれた世界モデル」であるとする
神々の沈黙』と響き合う感じがします。


古代の身体感覚と現代の我々の溝を埋めるための補助線が、
はるかに現代寄りの「能」でいいのか、という批判もあるかもしれませんが、
古代の漢字とそこに込められていた呪術的な意味や身体感覚を通して
論語を読んでみるという試みは、とにかくユニークです。



2014/08/19

第7冊 神は、まだそこにいるのです 『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ


『神々の沈黙』ジュリアン・ジェインズ

第一部完、次回作にご期待ください! → 著者、他界

続編書くよ、と宣言されたまま書かれない
本というのは一杯ありますが、ただ書かれないだけなら
まだしも、書かれないままに著者が他界してしまう、
というのはあまりに切ないパターンであります。

本書は、その典型的な例です。

人間の意識って何だろう、というところに
挑んだ本は多いですが、この本は、古代文献や
古代遺跡の研究から、3000年ほど前まで、
人類に「意識」はなかった……という、
驚きの仮説に到達します。

「意識」はなかった、と言っても、みんな気絶してた、って
意味ではもちろんないです。


この本では最初の方で、意識とは何でないかということを
掘り下げることで、意識とは何か、ということを定義します。


その結果、意識とは、
比喩から生まれた世界のモデル
言語に基づいて創造されたあのアナログ世界
ではないか、という 結論に達します。


……要するに、「人間は頭の中に言葉に基づいた
バーチャルな世界を構築し、それを使って考えている。
これが意識ではないか」という定義に行き着くわけです。


人間は、意識があるから葛藤する。好きだけど嫌い、とか、
イヤだけど長い目で見たらメリットあるかも、とか。


だけど、意識のない頃の人間には葛藤がなかった。
なぜなら、神の声が聞こえたから

意識に先立って、幻聴に基づいたまったく別の精神構造があった
というのが、本書の肝となる仮説です。

駆け足で説明すると、何じゃそりゃという感じがすると
思いますが、ジュリアン・ジェインズは、メソポタミアや
ギリシアの古代文献、それに旧約聖書を淡々とひもとき、
それを証明しようとします。


天の神様の言う通り


例えば、ホメロスの『イーリアス』。
現代の小説であれば、葛藤やら何やらが描かれて然るべき
場面が、神の声によってあっさりと行動が決定されてしまう。
『イーリアス』に出てくる人々は自らの意思がなく
何よりも自由意思という概念そのものがない
「てーんのーかーみーさーまーのいーうーとーおーりー♪」
……という歌遊びがありますが、まさにそれを地でいく
世界だった。

神の声が直接に聞こえていたような記述が続く時代には、
意志や意識という意味合いに解釈できる言葉がなく、
逆に、時代が下り、人々に神の声が聞き取れないという
記述が増えてくると、替わって意志や意識を意味する
言葉が増えてくる。


かつてその神の声は、現代の我々が「幻聴」と呼ぶ現象として、
人の行動を支配していた、というわけです。


この神の声を聞けた心の状態をジュリアン・ジェインズはBicameral Mind
バイキャメラル・マインドと名付けました。直訳すれば、二院制の心。
邦訳では、<二分心>とされています。


自由意志がなくて、頭の中から響いてくる神の声に従って生きるって、
どういうことだろう……?本書には、以下のような記述があります。


個人的野心や個人的怨恨、個人的欲求不満など、
個人的なものは一切存在していなかったが、それは
<二分心>の人間には一個人になるための内なる「空間」も、
一個人になるべきアナログの<私>もなかったからだ。

「個人」なるものがなかった。「私」なるものがなかった。
だから心理的葛藤もなかった。意思決定のストレスもなかった。


現代人が非科学的と思いながらも、意思決定に悩むときに
占いに救いを求めたりするのは、その名残りかもしれません。


神様からの親離れ~意識の獲得


個人的なものが一切存在しないのであれば、同じ神が導く限り、
その小さなコミュニティは比較的平和であったことでしょう
(神が喧嘩しろと命じたら別でしょうけど)。


ただ、古代史を調べると、<二分心>時代の国家間の関係は、
敵対か友好の両極端だったようです。たしかに利害が違う「別の神の民」
に対して神が発する声が、「ナカヨク!」か「ヤッチマイナ!」
の両極端になりそうなのは、それなりに納得できます。


『動物感覚』でも、動物に葛藤はなく、愛憎入り交じった感覚
なんて持たず、愛憎どちらかだけになる、という話がありましたが、
古代人たちもそうしたメンタリティの持ち主だったのかもしれません。


また、<二分心>時代の国家は、ある程度以上の規模になると
あまりはっきりした外的要因がないままに崩壊する事も
ままあったようです。これも、ひとつのコミュニティに属する
人々の頭の中に聞こえてくる「神の声」のブレやズレを、
制御しきれなくなったらコミュニティが崩壊する、という感じで
考えれば確かに納得できます。


その後も文字の隆盛や異種族間の接触の増加、火山噴火による
緊急事態の連続などにより神はどんどん「黙り」はじめます。
こうして、次第に神の声を喪った人類は、「意識」を持ち、
切り離された「個人」となり、個人と個人の「間」が空いた存在、
すなわち「人間」になったのです。



別れても、好きな神

憑依現象や催眠現象、詩や音楽の芸術、統合失調症といったものは、
神の声が聞こえた、<二分心>状態の名残ではないかと本書は説きます。


そして科学でさえ、神を喪った人間が、神の声、あるいはその代わりの
何かを求めているものではないのか、と。キリスト教と科学はある意味
親子のような関係だった、という歴史を知っていると、この辺は読んでいて、
ちょっとグッときます。


<個人>たる<私>に分かたれた人間が、その孤独に耐えきれず、
<二分心>モードに戻りたいと欲している面がどこかにある、というのは
よく納得できるように思います。そうでなきゃ、占いやらスピリチュアリズム
やら自己啓発やらがこんなに大手を振っていないでしょう。


余談ながら、本書を一読して思ったのは、ジュリアン・ジェインズが
存命だったら、『機動戦士ガンダム』とか『新世紀エヴァンゲリオン』を
観てみてほしかった、という思いです。「ニュータイプ」とか「人類補完計画」とか、
<二分心>モードっぽいので。あとは、白川静の本とか。
クラークの『幼年期の終わり』とかは、もしかしたら読んでいたかも。

勝手に続編予想したくなる名著

本書で予告されていた続編、『意識の帰結』は、ジェインズ亡き今、
もう書かれることはありませんが、私なりに、『神々の沈黙』の
延長上にどんなことが論じられるか(論じられてほしいか)、
妄想してみたくなります。

胡散臭くも壮大な<二分心>仮説、ぜひ、一度は
触れてみてください。すごく頭良くなった気分が
味わえます(笑)。

蛇足:勝手に続編予想 

おそらく、未知の続編『意識の帰結』は、駆け足でしか触れられなかった
<二分心>を失って、替わりに意識を得た我々、現在の人類を
よりクローズアップしたものだったと思われます。


自我や自己に関する哲学的な諸問題を、<二分心>仮説を
敷衍してぶった切っていく時に、大事になるのは、いわゆる
自同律の不快(by 埴谷雄高)と我々との付き合い方では
ないかと思います。


<私>であることは、結構たいへんだし、時として、不快なのです。
「自分探し」とは、結局、「探す」という言葉のもとに、今の
<私>から逃走し続けることです。

  ※ 余談 アドラー心理学が受けているのは、この自同律の不快に
  対して「イヤなら、その自分、やめれば?」と言ってのける

  思想だからだと私は考えていますが、それについては稿をあらためます。

まあ、逃げたくなるのも、やむなしか、とも思います。
何せ、これまで<神>がいた座に生まれたのが<私>
なのです。自分の<神>を自分で担当するんですから、
これはちょっと、親離れといっても大仕事です。


ゆえに、<私>であることをチョットやめられる状態を、
人は求め続けているように思えます。酒への耽溺も、
スポーツへの熱狂も、アイドルのライブでの狂騒も、
匿名掲示板の「祭り」での暴走も。


そう、人には「祭り」が必要なのです。
だから人類は、より新たな「祭り」を生み続けてきました。
文学、音楽、演劇、映画、マンガ……そしてゲームやSNS。


……その結果、現在は、おそらく祭りだらけなんです、
至るところが。民俗学でよく言われる、ハレとケの
逆転現象は、もはや究極にまで至っているのではないかと
思います。


おそらく『意識の帰結』は、このハレだらけになった
世界と意識の付き合い方
を考えさせてくれる本に
なるはずだったのだと思います。






その具体的方法は、一言で言えばおそらく「身体性への回帰
ではないかと思うのですが、これ以上深入りすると終わらない気が
するので、また稿を改めます。


……なんてことを語りたくなるくらい、凄い本なんです、これは。

おまけ 関連しそうな本など


かつての、葛藤のない脳内世界がいったいどうなるか、というのは、
ジル・ボルト・テイラーの『奇跡の脳』が参考になるかもしれません。
こちらの本では、脳科学者である著者が、自らが脳卒中になり
左脳の一部が機能不全に陥った時のことを書いていますが、
左脳の機能がどんどん喪われていく中で、宗教的にも思えるような
安らぎの境地、著者曰く「涅槃(ニルヴァーナ)」を体験しています。



奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫): ジル・ボルト テイラー

※こちらは薄くて、わりあい簡単に読めます。中身は濃いです。

あと、意識は後付けの機能に過ぎないとする、「受動意識仮説」を提唱する
こちらの本たちも、『神々の沈黙』と併読するとより深く納得できるかもしれません。


脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫): 前野 隆司

錯覚する脳: 「おいしい」も「痛い」も幻想だった (ちくま文庫): 前野 隆司:

あと、意識は現実から0.5秒遅れだ、みたいな話に関連して、
忘れてはいけない名著、


Amazon.co.jp: ユーザーイリュージョン―意識という幻想: トール ノーレットランダーシュ, Tor Norretranders, 柴田 裕之: 本
また、20世紀最大の神秘思想家といわれるグルジェフは、
彼が連想器官(フォーマトリー・アパラタス)と呼ぶ、
言語による果てない連想を促す器官のはたらきを弱めることが、
覚醒への道だと説いています。これは、『神々の沈黙』の読後だと、
<二分心>状態への回帰を目指しているようにも読めます
(ジェィンズはグルジェフの著作からもインスパイアを得ているかも
しれません)。







2014/08/14

第6冊 ゲーム脳は愛より世界を救う『ハイスコア・ガール』押切蓮介 



ハイスコアガール(1) 押切 蓮介

「待ちガイル!!」

ってフレーズが懐かしいあなたは、読んでますよね。
読んでませんか、読むべきです。

著作権をめぐるアレコレで取り沙汰
されていたので、つい読み返してしまいました。
ファネッフー。

ゲーム脳、もしかして凄いんじゃないですか

 

ゲームは時間の浪費だったんじゃないか?
青春をぜんぶゲームに吸われてしまった!

……なんて、思うコトなかれ。

浪費して何が悪いのです。
人生はヒマつぶしです。
そして、あれはまぎれもなく、青春だったのです。

 このブログだって、人生の重要な諸課題を
そっちのけで書かれています。なんの益もないのに、
ただひたすら自己満足のために(笑)。

1990年代、ゲーセンや玩具屋、駄菓子屋の店頭で
「ストリートファイト」が行われていた時代の、アノ空気。

あれがただの時間と金の浪費ではなく、とてつもなく
愉しい、かけがえのない時間だったのだと
再認識させてくれる、そんな作品です。


つながる力、察する力、パクる力



で、また本筋と違うところで語ってみたいと思います。

当時のゲーセン文化を思い返してみて面白いのは、
ある種の「場」が出来ていたこと。
  • 当時、貼り紙なんかなくても、ローカルルールは
    いつの間にか把握していた
  • ネットもないのに技術的ノウハウがたちまち
    知れ渡っていた。パクりパクられ、を繰り返して
    いるうちに、一人では絶対に到達不可能な
    技術レベルに達する
  • 動きや戦術から、プレイヤーの腕前、ひいては
    性格(?)まで、何となくアタリがつけられた
    (気になれた)。そのおかげで、トラブルメーカーを
    事前に回避したり、場合によってはゲーセン友達ができた
  • ゲーセンのノートを介した、誰に届くか分からない
    或る意味不毛なコミュニケーションが、愉しく続けられていた
……といった、今考えると、どうやってやったのか、
どうしてそうなったのかが今ひとつ分からないことを
みんな自然にやってのけてたわけです。

まあ、プレーリードッグでもコミュニティを作って
言語で意思疎通しているくらいですから、これくらい、
人間様ならお手の物でしょうが、ゲーム脳もなかなか、
捨てたもんじゃないと思います。


  →7DE-001『動物感覚 アニマルマインドを読み解く』参照

妄想やゲームの中でとはいえ、我々ゲーマーほど
何度も弱きを助け、悪しきを挫き、世界を救ってきた
人種はいないと思いますし(笑)。

そうそう、無理矢理これまで読んだ本に関連付けるならば、
格闘ゲーム華やかりし頃、ゲームセンターという、
あの薄暗くてギスギスして不健康そうな(笑)「場」には、
それでも内田樹さんの言うところの「祝福」が満ちていたのです。

   →7DE-002,3 『呪いの時代』内田樹 & 『虐殺器官』伊藤計劃参照 

その場、その時、そのマッチングでなくては為し得なかった
プレイが目の前で展開したときの無言の賞賛(もちろんその
逆もあったりしましたけど(笑))。


あの場には、確かに「そういうもの」があった。


ソーシャルゲーム、ネットゲーム全盛の今、あの空気を妙に懐かしく
感じるのです。もはや、20世紀生まれの懐古趣味なのかも
しれないですけどね。

第5冊 唯一の欠点は、ロシア系の名前が憶えづらいこと 『春風のスネグラチカ』沙村広明

「私がシシェノークの手を煩わせる事無く
土の上を動き廻ることなど絶対にあり得ません」



春風のスネグラチカ 沙村広明


『無限の住人』『ハルシオンランチ』等の沙村作品を
愛読してきた身としては、果たして今回はどんな……
と思っていたら、まだ「若い」ソヴィエト連邦を舞台にした、
歴史ミステリー!

いやぁ、色々引き出し持ってますねぇ。
で、ミステリー的な謎解きの部分に踏み込まずに、
ブンガク的な方法であえて読み解いて、頭イイ人のフリを
してイイ気分に浸ろうというのが、本記事の目的です(笑)。

「ソ連、世界史の時間に習ったよ」

……という言葉を十代の若者から聞いて、先日ちょっと
ショックを隠しきれませんでした。そういえば。
余談でした。

物語は1933年のソヴィエト連邦から始まります。
車椅子の少女とその従者の青年の正体は?
彼らがこだわり続ける共産党管理下の「別荘」に
隠された謎とは……?

……とミステリーとしても面白いのですが、
こんな最果ての地のブログですから、
上記のとおり、あえて本筋から外れた部分に着目してみます。


信仰の地下水脈


本作では、ロシアの持っていた宗教的伝統(ロシア正教)や、
オカルティックな知識・技能(チベット医学)が、「科学的」な
共産主義による統治下でひっそりと隠れて息づいている様が、
作品世界に奥行きを与えています。

私が趣味でやっている「システマ」というロシア生まれの
武術がありますが、その思想的ルーツはロシア正教だったようで、
ソヴィエト連邦統治下にあっては、やはり深く静かに、
受け継がれていたようです(今や世界展開中ですが)。

本作でも、宗教を否定されているソヴィエトの国民は、
ロシア正教を表向き捨てたことになっているわけですが、

「スープの肉を時々残しているようですが、
斎戒日を気にしておられますか?」
「!!…………いや、気にするわけがなかろう」

……と、引用したセリフですぐ分かるくらい、聞かれた
側のオッサンは動じてます(笑)

やはり、人間の信仰ってのはなかなか変えられない。
どこかで偉大なるもの、善なるものとつながっていたい
のでしょう。

私は、共産主義というのは、合理的な思考をとことん
突き詰めた末にできた考え方だとは思っていますが、
私が共産主義に感じる致命的な欠陥は、人間というものが
もとから合理的には出来ていないことを、勘定に入れて
いないことです(笑)。
 本作のメインキャラたちは、皆クセがあり、一見
とっつきにくい連中ですが、読み終わる頃には、何となく、
この連中が好きになってしまう。おそらくは、彼らの行動が
物凄く「人間臭いから」です。 合理性などくそくらえ。
「きれいはきたない」ってヤツです。

非合理でいいじゃない、人間だもの

共産主義社会というとっても「合理的なシステム」
の中で、彼らは自分たちのコダワリのままに、
とことん、非合理に邁進します。

「従者の手を煩わせないと動けない車椅子」に象徴されるように、
本作は、合理的なシステムの中で、人間の不合理さが、
ある種のしぶとさ、強さ、生命力として描かれています。

ミステリーとしてのネタがばれないように書くと、

「助けるべきでないものを助ける」
「追求すべきことを追及しない」
「崇拝するものを汚す」
「自らを虐げてきたものを助ける」

……といった塩梅。

そして、主従関係に思われたモノが実は……?
というのがミステリーとしてのキモでもあるのですが、
読んだ方ならお分かりの通り、この主人公二人は
関係性にしても考え方にしても合理性とは対極なのです。
だが、そこがいい、のです。

『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木先生にならって言うなら、
本作もまた、 「人間賛歌」なのです。不合理で利己的で
泥臭くて目の前の相手のことを慮るので精いっぱいの
奴ら。

そんな奴らに会えるだけで、十分モトは取れる、ってもんです。


 

以下、蛇足です。
さらに本筋から離れます。

本作ではヒマラヤの薬草学というのが、ひそかに
重要な役割を果たしますが、19世紀末~20世紀初頭
というのは、欧米圏で東洋的なオカルティズムが
やたらと幅をきかせていた時代でもありました。

19世紀末には、オカルト好きにはたまらない、
ロシア出身のブラヴァッキー夫人が神智学協会を
ニューヨークにて設立。
20世紀初頭には、グルジェフが帝政ロシアに
チベット密教の秘儀をもたらしています。

オカルティズムの台頭は、
急速に合理的な思想・体制が組みあがっていく
時代の、 人間の非合理的な面の側のせめてもの
抵抗だったのかもしれません。

「だった」と書きましたが、この一世紀前の状態から、
実は状況はそんなに変わっていない気もします。

このへんも、また掘り下げてみたいと思います。

2014/08/11

第4冊 偉人の父は、エラい奴だった 『夢酔独言』勝小吉


夢酔独言 勝 小吉

素行真っ黒のバイオレンス御家人

おれほどの馬鹿な者は世の中にあんまり有るまいとおもふ。
故に孫やひこのために、はなしてきかせるが、能能不法もの、
馬鹿者のいましめにするがいゝぜ
あの勝海舟の父親の自叙伝が上のような序から始まるので、
どんな説教臭い話になってしまうのか、と思ったら、 さにあらず。

色んな方の自叙伝を読みましたが、これは間違いなく
トップクラスに面白いです。

前半を駆け足でざっと紹介してみましょうか。

幼い頃から暴れん坊で、強情で、わがまま。
7歳にして数十人の子どもを相手に脇差しを
持ち出して大げんか、14歳にして家の金を
ちょろまかして出奔、その金を盗まれても
乞食をしながら乗り切り、18歳の頃には
かなりの剣の腕を誇り、剣術の他流試合の
コーディネーターをつとめるも、日々喧嘩に
あけくれ、狼藉が過ぎたために21歳で実父に
座敷牢に叩き込まれ……。

ちなみに、勝海舟(幼名・麟太郎)は、小吉
が座敷牢に入獄している間に生まれています。

そんじょそこらの犯罪小説はだしです。
ひどい。

喧嘩喧嘩に盗みはするし、借金だらけなのに
手元にお金があれば吉原で散財するし、でも
金には困っているから物売りでも刀剣ブローカーでも
用心棒でもやるし、だけどやっぱりお金があると
周りにも気前よく振る舞ってしまう。とはいえ、
だからこそ、周囲からの信望は厚かったりもする……。

それらのことを、ことも無げに淡々と書いています。
このさらりとした筆致が、たまらなく面白い。

例えば、素行が悪すぎて36歳のときに、怒り心頭の
兄に「パワーアップ版・二重囲いの自家製座敷牢」に
入れられそうになったときのこと。

「入れられたくなかったら、改心しろ」と何とか仲裁
しようとする姉に対して、「死ぬ覚悟で来たから
すぐ牢に入れてくれ」と逆に迫る勢い。扱いに
困った姉から「一先(ひとまず)内へ帰れ」と
言われて帰ったのち……以下のように記してあります。


夜五ツ(午後8時頃)時分じぶんまで呼に
来るかと待っていたが、一向う沙汰がないから、
其晩は吉原へ行って翌日帰った。



座敷牢に入れられる方向に話が進んでいるというのに、
その沙汰をしばらく待って「一向う沙汰がないから、
其晩は吉原へ行って翌日帰った」とサッパリしたものです。


全編、こんな調子です。


善し悪しはともかくとして、ここまで人目を
はばからず、したいように生きて、いつ死んでも
いいと思っているような生き様は、「凄い」と
思ってしまいます。


でも息子思い、だけどさ。


こんな父親でさぞや勝海舟も大変だったろうとは
思いますが、勝海舟、当時9歳が犬に睾丸を
かまれて生死の境をさまよったときのくだりには、
息子を深く愛していた、ということを示す行動も書かれています。

篠田と云う外科を地主が呼んで頼んだから 傷口を
縫ったが 医者が振えているから俺が刀を抜て枕元へ
立て置て りきんだから、息子が少しも泣かなかった故、
漸々縫って仕舞ったから容子を聞いたら、
「命は今晩にも受け合は出来ぬ」 と云ったから、内中の
やつは泣いて計りいる故、思うさま小言を云って叩き散らして、
其晩から水を浴びて金比羅へ毎晩裸参りをして祈った。
始終俺が抱いて寝て外の者には手を付させぬ。毎晩々々暴れ散らしたらば、
近所の者が、「今度 岡野様へ来た剣術遣いは、子を犬に喰われて気が違った」
 と云いおった位だが、到頭 傷も直り七十日目に床を放れた。
夫から今になんともないから、病人は看病が肝心だよ。

えーと……はい。
金比羅へ毎晩裸参り」とか「始終俺が抱いて……」 とか
息子思いな感じですね。

でもちゃんと「毎晩々々暴れ散らし」てます。
さすがです。
ぶれません。

で、それも例によってさらりと書いて、最後は
病人は看病が肝心だよ」となんだかいい話ふうに
しめくくっています。

序に「馬鹿者のいましめにするがいゝぜ」と書いているわりに、
悪行をはたらいたときの記述に対してほぼ全く悪びれた感じがない、
この「お前実は自慢したいだけだろ」とか「本当に反省してんのかよ」
と読者に思わせる絶妙な筆致が、本書の最大の魅力であります。

下手な自己啓発本を読むより、よほどクヨクヨしなくなります。
おすすめです。


夢酔独言 勝 小吉


2014/08/05

第2&3冊 disる言葉が、今日もどこかで増えてます『呪いの時代』内田樹 & 『虐殺器官』伊藤計劃


呪いの時代 (新潮文庫): 内田 樹

現代の「呪い」

忘れられやすいことですが、呪いが機能するのは、それが
記号的に媒介された抽象物だからです。具体的、個別的、
一回的な呪いというようなものは存在しません。
あらゆる呪いは、抽象的で、一般的で、反復的です。
それが記号的ということです。
(本書「祝福の言葉について」より)

自分たちの言葉が記号的に増殖し、現実の殺人者に
「殺す根拠」を備給する可能性について想像したことは
あるのでしょうか。
(同上)

相手を打ちのめし、否定するために放たれる言説を
「呪い」の言説と呼ぶ切り口に、「これは」と思って
一気に読んでしまいました。

言霊信仰、という概念がありますが、私は、毎年年を
重ねるにつれて、言霊というのは実にもっともな仮説だな、
と思うようになっている気がします。

徒手療法という商売柄、自分の放った一言が、良くも悪くも
かなり強力に患者さんの生活を変えてしまうことを実感する
せいもあるかもしれません。

また、これをお読みのあなたも、きっと、辛い時にふと
思いだすお守りのような言葉や、逆に、今
思い出しても心をえぐるような言葉があると思います。

本書では、現代をその後者、「呪い」に満ちた、
「呪いの時代」である、と述べます。

冒頭に引用したように、人々が、明確な相手の
いない空間に向かって放った記号的な「呪い」が、
何かの拍子に、だれかの悪意を後押しし、彼彼女が
ほかのだれかを攻撃する根拠となってしまう、
という世界観は、今の社会に私が感じる気持ち
悪さをかなり上手く説明してくれている気がします。


「呪い」はめぐる


国家や民族、宗教、病名などのレッテルや、
そのレッテルを貼られた人たちへの「呪い」が、
延々と再生産され続ける(例えば隣国への呪詛/
隣国からの呪詛は言うに及ばず、極端なことを言えば、
「リア充爆発しろ」だって冗談ではありますが、十分
呪いです)というのは今にはじまったことではないわけで、
「呪い」はずっとあったのでしょう。

それを、「呪いの時代」と名付るに足るまでの状況に
なっているのは、インターネットのウェブサイト上で、
容易に言葉をやりとりし、「呪い」を可視化できる
ようになったのが大きいのかもしれません
(可視化できるうえに、なかなか消えません)。



もはや着地点を探ろうなんて最初から
お互いに思っていない、議論のフリをした空虚な
「呪いの撃ち合い」をそこここで見かけるに
つけ、「呪い」の厄介さを思い知るのです。 
本来ネットなんて接続を切ってしまえば
それまで、と言いたいところなのですが、
ネット経由で世界に繋がるほうが楽な人、
ネット経由で世界に繋がらないと怖い人が
増え続けている以上、この「呪いの撃ち合い」は、
とどまらず……

……そんな状況を思い描いて、
連鎖的に思いだしたのがこの本でした。


虐殺器官: 伊藤 計劃


数年前にSF小説としてはかなり売れた(?)
『虐殺器官』です。読まれた方にはしっくり来ると
思いますが、人間を虐殺や戦乱に導く言説の結晶、
「虐殺文法」というアイデアは、内田樹さんの言うところの
「呪い」をもっと純化(悪い方へ)させたものだと思うと
しっくりきます。






ハヤカワSFなのに売れた(笑)『虐殺器官』


おそらくは「呪い」の気持ち悪さみたいなものを
感じている人が少なからずいるからこそ、
『虐殺器官』は売れたんだろうなぁ、と思います。

故・小松左京さんが「虐殺文法」があまりに曖昧で
具体的に描かれていないことを理由に『虐殺器官』の
授賞に反対したという話がありますが、「呪い」の
気持ち悪さを感じている人からしたら、「虐殺文法」は
曖昧で抽象的であるからこそ「怖い」のだと思います。


言葉があるから呪いは生まれる?


バベルの塔神話は言葉の混乱がのちの
人々の争いを生んだとしていますが、
そもそも言葉そのものが、便利な反面、
実態を離れたレッテルを対象とした憎しみを
生み、育む、「呪い」の温床としての機能を
持ってしまっている、とすら私は思っていますが、
だからこそ同時に、「呪い」に対するカウンターに
なるとも思います。

『呪いの時代』で内田樹さんが提唱している
処方箋も、すごく簡単に言ってしまうと、
「祝福」です。

「祝福」は個別性、具体性を取り上げて
認めることによって、むしろ「祝福」の対象を
深く無限のものとして肯定してみせることだ、と
内田樹さんは述べます。

この論を読んで、Facebookの「いいね!」ボタンに
対して私が感じていた微かな違和感の正体が、
少し分かった気がしました。

この「祝福」をあまりにシステマティックに、
しかも個別性や具体性を排除した形で行えて
しまうから、でしょう。墓参りをネットで済ますことに
似た違和感ですね。

自分の商売柄もありますが、この「呪い」に
満ちた状態を生き抜くためには、この個別性や
具体性の極み、すなわち自分の身体に還ることが
とても大事なように感じています。

……まあ、これは書くとまた長くなるので、他の
本(たぶん、「呪いの小説」『陋巷に在り』)の
感想とからめつつ。

それでは。

第1冊 人間だって動物です『動物感覚 アニマルマインドを読み解く』


動物感覚―アニマル・マインドを読み解く

ためになる奇書

 

とにかく、すごい本に出会ってしまったなぁ、という感じです。

『動物感覚』というタイトルではありますが、
本当に色々な読み方ができます。

 実用書であり哲学書であり科学書であり、
みずみずしいエッセイでもあります。

「動物といかに付き合うかについての本」であり、
「人間と動物との違いについての本」であり、
「自閉症についての本」であり、
「自閉症と動物の考え方の類似性についての本」であり、
「人間がどこまで動物で、動物がどこまで人間であるか
についての本」であり。

もしかしたら自己啓発書チックな読み方をして、
「皆が見落としてしまう問題を見つけ出し、解決する方法の手引き」としても、
「人間関係や組織の在り様についてのヒントを
与えてくれる本」としても、
役立てることが可能(かもしれません)。

なぜ、自閉症と動物感覚が関係あるの?


動物についての本が、どうして自閉症に関係するの?
と思われた方もいるかもしれません。

著者のテンプル・グランディンは、
自身も自閉症の動物学者です。

彼女は、自分が自閉症であるがゆえに
動物が何を見、何を感じているかが
わかるという自身の経験から、サヴァン自閉症
の人が示す特異な能力(見たままの絵を書く、
異常な記憶力を持つ、等)と、動物が示す能力
(予知とも思えるような知覚や、膨大な餌場を記憶して
おく空間認知など)が似たもの、もしかしたら同じもの
なのではないか、という着想を得て、その着想を
皮きりに、人間と動物の在り様を様々な角度から
切り出していきます。


この切り口、そして内容が、やたらと私に
響いたのは、おそらく私自身が、
自閉症スペクトラムとか発達障害と呼ばれる
ものに位置付けられてもおかしくないタイプの
性向を持っているから、ということもあると思います。


私は子供の頃、弁当を食べるだけで、 昼休みが
ほぼ終わってしまうくらい、ひどくマイペースでしたし、
また、クラスメートの名前を夏が過ぎる頃まで
憶えなかったり、ひとつ前の席の女の子がメガネを
かけてきただけで、「転校生」と認識したり、といった
具合でしたので、テンプル・グランディンの幼少期の
エピソードも、共感できる部分が少なからずありました。


そういう目で、本書を素直に読んでいくと、
ああ、人間といっても動物だから、こんな行動を
とってしまうのか、と目からウロコが落ち続けます。

 

人間。動物的な、あまりに動物的な


私が本書から受け取ったメッセージのひとつは、

「動物はおどろくほど人間的で、
人間はおどろくほど動物的であり、
人間は、さほど特別な動物ではない」

ということです。

言葉にしてしまえばシンプルですが、例えば、本書では
われわれ人間も動物も、ものごとの間に因果関係を感じる
仕組みをひとしく持っていると説明します。

動物と人間は、「確証バイアス」と学者が呼ぶものを、生まれつきもっていることがわかっている。ふたつの事柄が短時間のあいだに起こると、偶然ではなくて、最初の事柄が2番目の事柄を引き起こしたと信じるようにつくられているのだ。

(中略)

確証バイアスが組みこまれているために生じる不都合は、根拠のない因果関係までたくさん作ってしまうことだ。迷信とは、そういうものだ。たいていの 迷信は、実際には関係のないふたつの事柄が、偶然に結びつけられたところから出発している。数学の試験に合格した日に、たまたま青いシャツを着ていた。品評会で賞をとった日にも、たまたま青いシャツを着ていた。それからとは、青いシャツが縁起のいいシャツだと考える。
 動物は、確証バイアスのおかげで、いつも迷信をこしらえている。私は迷信を信じる豚を見たことがある。
(中略)

人間と動物はまったく同じやり方で迷信をこしらえる。私たちの脳は、偶然や
思いがけないことではなく、関連や相互関係を見るようにしくまれている。しかも、
相互関係を原因でもあると考えるようにしくまれている。私たちが生命を維持する
上で知っておく必要のあるものや、見つける必要があるものを学ばせる脳の同じ
部分が、妄想じみた考えや、陰謀めいた説も生みだすのだ。

(第3章 動物の気持ち p134~136)
 人間が、どれほど自分では理性的に考えているつもりでも、
この確証バイアスからはなかなか自由になれないわけで
人間が知恵をつけたつもりでも、実はものごとの捉え方としては
とっても「動物的」なまま、ということになるのですね。


脳の構造としても、人間は他の動物の脳に比べ、新皮質という最上部の
層が分厚くなっていますが、他の動物の脳を「建て増し」したような構造に
なっている、と言われます。


もっともらしく後知恵をつけても、行動原理はかなり動物的だったりする
のは、こうした脳の構造から言ってもある意味当然と言えば当然なのですが、
動物学者の知見から実例を挙げられると、もはや清々しいくらいです。


著者に言わせれば、新皮質、わけても前頭葉の機能が、
人間の動物的な特殊能力を減じている面もあり、
前頭葉の機能が抑制されている自閉症者に動物的な才能が
開花するのは当然、ということになるかもしれません。


思いあがるな人間


こういうことは人間の十八番だろう、と思われることや、人間ならではの
高度な知能がないと(良くも悪くも)出来なさそうなこと、逆に人間には
とても出来なさそうなことを、動物がやすやすとこなしてしまう例もほんとうに
色々紹介されています。

渡り鳥が六五〇キロの経路を誤らずに憶えたり、ハイイロリスが
木の実を埋めた場所を何百か所も憶えていたり。
戦争をするチンパンジーもいるし、 集団レイプや虐殺をしてみせるイルカもいるし。
クジラは韻を踏んで歌い、ウタスズメは即興でソナタを歌う。

特に私が驚いたのは、以下の例。
(前略)
プレーリードッグのコロニーには、名詞、動詞、形容詞をそなえた意思伝達
システムがあることを発見した。ガニソンプレーリードッグは、どんな種類の
捕食者――人間、タカ、コヨーテ、犬(名詞)――が接近しているのか、
捕食者がどんな速度で移動している(動詞)のか教えあう。人間が銃を手に
しているのかいないのかも知らせる。
(中略)

人間が近づいてくるのを知らせるときには、体の大きさや形ばかりか着ている
服の色(形容詞)まで教える。ほかにもいまだ解読されていない鳴き声は
たくさんある。
(p359-p360)
プレーリードッグがここまでの言語を用いているとは、正直驚きでした。
人間は自らを万物の霊長と思っていたりしますが、賢い、賢くないの尺度が
人間ベースなだけで、まぁ、人間の思い上がりなのかもしれません。

動物だ、と思って生きる


単純に雑学を仕入れるために読んでも充分面白い本ですが、いま
何らかの生きづらさを感じている方にも、うすっぺらな対人関係の本を
100冊読むよりも、これを1冊読むことをお勧めします。


読書に慣れていない方とかは、うすっぺらな本を100冊読むより
大変かもしれませんけど(笑)、内容の面白さと編集者や翻訳者の
技量のおかげで、分厚いのに飽きずに読み進められます。


この本の凄い所は、一読したのち、自閉症もそうでない人も含めた人間に
対しても、動物に対しても、これまでとは明らかに見る目が変わる、ということです。


いきなり本にいどむのはチョット、という方は、著者のTEDでの講演を
ご覧になると良いかと思います。私はこれで、彼女のファンになりました。


動物感覚―アニマル・マインドを読み解く