2014/08/19

第7冊 神は、まだそこにいるのです 『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ


『神々の沈黙』ジュリアン・ジェインズ

第一部完、次回作にご期待ください! → 著者、他界

続編書くよ、と宣言されたまま書かれない
本というのは一杯ありますが、ただ書かれないだけなら
まだしも、書かれないままに著者が他界してしまう、
というのはあまりに切ないパターンであります。

本書は、その典型的な例です。

人間の意識って何だろう、というところに
挑んだ本は多いですが、この本は、古代文献や
古代遺跡の研究から、3000年ほど前まで、
人類に「意識」はなかった……という、
驚きの仮説に到達します。

「意識」はなかった、と言っても、みんな気絶してた、って
意味ではもちろんないです。


この本では最初の方で、意識とは何でないかということを
掘り下げることで、意識とは何か、ということを定義します。


その結果、意識とは、
比喩から生まれた世界のモデル
言語に基づいて創造されたあのアナログ世界
ではないか、という 結論に達します。


……要するに、「人間は頭の中に言葉に基づいた
バーチャルな世界を構築し、それを使って考えている。
これが意識ではないか」という定義に行き着くわけです。


人間は、意識があるから葛藤する。好きだけど嫌い、とか、
イヤだけど長い目で見たらメリットあるかも、とか。


だけど、意識のない頃の人間には葛藤がなかった。
なぜなら、神の声が聞こえたから

意識に先立って、幻聴に基づいたまったく別の精神構造があった
というのが、本書の肝となる仮説です。

駆け足で説明すると、何じゃそりゃという感じがすると
思いますが、ジュリアン・ジェインズは、メソポタミアや
ギリシアの古代文献、それに旧約聖書を淡々とひもとき、
それを証明しようとします。


天の神様の言う通り


例えば、ホメロスの『イーリアス』。
現代の小説であれば、葛藤やら何やらが描かれて然るべき
場面が、神の声によってあっさりと行動が決定されてしまう。
『イーリアス』に出てくる人々は自らの意思がなく
何よりも自由意思という概念そのものがない
「てーんのーかーみーさーまーのいーうーとーおーりー♪」
……という歌遊びがありますが、まさにそれを地でいく
世界だった。

神の声が直接に聞こえていたような記述が続く時代には、
意志や意識という意味合いに解釈できる言葉がなく、
逆に、時代が下り、人々に神の声が聞き取れないという
記述が増えてくると、替わって意志や意識を意味する
言葉が増えてくる。


かつてその神の声は、現代の我々が「幻聴」と呼ぶ現象として、
人の行動を支配していた、というわけです。


この神の声を聞けた心の状態をジュリアン・ジェインズはBicameral Mind
バイキャメラル・マインドと名付けました。直訳すれば、二院制の心。
邦訳では、<二分心>とされています。


自由意志がなくて、頭の中から響いてくる神の声に従って生きるって、
どういうことだろう……?本書には、以下のような記述があります。


個人的野心や個人的怨恨、個人的欲求不満など、
個人的なものは一切存在していなかったが、それは
<二分心>の人間には一個人になるための内なる「空間」も、
一個人になるべきアナログの<私>もなかったからだ。

「個人」なるものがなかった。「私」なるものがなかった。
だから心理的葛藤もなかった。意思決定のストレスもなかった。


現代人が非科学的と思いながらも、意思決定に悩むときに
占いに救いを求めたりするのは、その名残りかもしれません。


神様からの親離れ~意識の獲得


個人的なものが一切存在しないのであれば、同じ神が導く限り、
その小さなコミュニティは比較的平和であったことでしょう
(神が喧嘩しろと命じたら別でしょうけど)。


ただ、古代史を調べると、<二分心>時代の国家間の関係は、
敵対か友好の両極端だったようです。たしかに利害が違う「別の神の民」
に対して神が発する声が、「ナカヨク!」か「ヤッチマイナ!」
の両極端になりそうなのは、それなりに納得できます。


『動物感覚』でも、動物に葛藤はなく、愛憎入り交じった感覚
なんて持たず、愛憎どちらかだけになる、という話がありましたが、
古代人たちもそうしたメンタリティの持ち主だったのかもしれません。


また、<二分心>時代の国家は、ある程度以上の規模になると
あまりはっきりした外的要因がないままに崩壊する事も
ままあったようです。これも、ひとつのコミュニティに属する
人々の頭の中に聞こえてくる「神の声」のブレやズレを、
制御しきれなくなったらコミュニティが崩壊する、という感じで
考えれば確かに納得できます。


その後も文字の隆盛や異種族間の接触の増加、火山噴火による
緊急事態の連続などにより神はどんどん「黙り」はじめます。
こうして、次第に神の声を喪った人類は、「意識」を持ち、
切り離された「個人」となり、個人と個人の「間」が空いた存在、
すなわち「人間」になったのです。



別れても、好きな神

憑依現象や催眠現象、詩や音楽の芸術、統合失調症といったものは、
神の声が聞こえた、<二分心>状態の名残ではないかと本書は説きます。


そして科学でさえ、神を喪った人間が、神の声、あるいはその代わりの
何かを求めているものではないのか、と。キリスト教と科学はある意味
親子のような関係だった、という歴史を知っていると、この辺は読んでいて、
ちょっとグッときます。


<個人>たる<私>に分かたれた人間が、その孤独に耐えきれず、
<二分心>モードに戻りたいと欲している面がどこかにある、というのは
よく納得できるように思います。そうでなきゃ、占いやらスピリチュアリズム
やら自己啓発やらがこんなに大手を振っていないでしょう。


余談ながら、本書を一読して思ったのは、ジュリアン・ジェインズが
存命だったら、『機動戦士ガンダム』とか『新世紀エヴァンゲリオン』を
観てみてほしかった、という思いです。「ニュータイプ」とか「人類補完計画」とか、
<二分心>モードっぽいので。あとは、白川静の本とか。
クラークの『幼年期の終わり』とかは、もしかしたら読んでいたかも。

勝手に続編予想したくなる名著

本書で予告されていた続編、『意識の帰結』は、ジェインズ亡き今、
もう書かれることはありませんが、私なりに、『神々の沈黙』の
延長上にどんなことが論じられるか(論じられてほしいか)、
妄想してみたくなります。

胡散臭くも壮大な<二分心>仮説、ぜひ、一度は
触れてみてください。すごく頭良くなった気分が
味わえます(笑)。

蛇足:勝手に続編予想 

おそらく、未知の続編『意識の帰結』は、駆け足でしか触れられなかった
<二分心>を失って、替わりに意識を得た我々、現在の人類を
よりクローズアップしたものだったと思われます。


自我や自己に関する哲学的な諸問題を、<二分心>仮説を
敷衍してぶった切っていく時に、大事になるのは、いわゆる
自同律の不快(by 埴谷雄高)と我々との付き合い方では
ないかと思います。


<私>であることは、結構たいへんだし、時として、不快なのです。
「自分探し」とは、結局、「探す」という言葉のもとに、今の
<私>から逃走し続けることです。

  ※ 余談 アドラー心理学が受けているのは、この自同律の不快に
  対して「イヤなら、その自分、やめれば?」と言ってのける

  思想だからだと私は考えていますが、それについては稿をあらためます。

まあ、逃げたくなるのも、やむなしか、とも思います。
何せ、これまで<神>がいた座に生まれたのが<私>
なのです。自分の<神>を自分で担当するんですから、
これはちょっと、親離れといっても大仕事です。


ゆえに、<私>であることをチョットやめられる状態を、
人は求め続けているように思えます。酒への耽溺も、
スポーツへの熱狂も、アイドルのライブでの狂騒も、
匿名掲示板の「祭り」での暴走も。


そう、人には「祭り」が必要なのです。
だから人類は、より新たな「祭り」を生み続けてきました。
文学、音楽、演劇、映画、マンガ……そしてゲームやSNS。


……その結果、現在は、おそらく祭りだらけなんです、
至るところが。民俗学でよく言われる、ハレとケの
逆転現象は、もはや究極にまで至っているのではないかと
思います。


おそらく『意識の帰結』は、このハレだらけになった
世界と意識の付き合い方
を考えさせてくれる本に
なるはずだったのだと思います。






その具体的方法は、一言で言えばおそらく「身体性への回帰
ではないかと思うのですが、これ以上深入りすると終わらない気が
するので、また稿を改めます。


……なんてことを語りたくなるくらい、凄い本なんです、これは。

おまけ 関連しそうな本など


かつての、葛藤のない脳内世界がいったいどうなるか、というのは、
ジル・ボルト・テイラーの『奇跡の脳』が参考になるかもしれません。
こちらの本では、脳科学者である著者が、自らが脳卒中になり
左脳の一部が機能不全に陥った時のことを書いていますが、
左脳の機能がどんどん喪われていく中で、宗教的にも思えるような
安らぎの境地、著者曰く「涅槃(ニルヴァーナ)」を体験しています。



奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫): ジル・ボルト テイラー

※こちらは薄くて、わりあい簡単に読めます。中身は濃いです。

あと、意識は後付けの機能に過ぎないとする、「受動意識仮説」を提唱する
こちらの本たちも、『神々の沈黙』と併読するとより深く納得できるかもしれません。


脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫): 前野 隆司

錯覚する脳: 「おいしい」も「痛い」も幻想だった (ちくま文庫): 前野 隆司:

あと、意識は現実から0.5秒遅れだ、みたいな話に関連して、
忘れてはいけない名著、


Amazon.co.jp: ユーザーイリュージョン―意識という幻想: トール ノーレットランダーシュ, Tor Norretranders, 柴田 裕之: 本
また、20世紀最大の神秘思想家といわれるグルジェフは、
彼が連想器官(フォーマトリー・アパラタス)と呼ぶ、
言語による果てない連想を促す器官のはたらきを弱めることが、
覚醒への道だと説いています。これは、『神々の沈黙』の読後だと、
<二分心>状態への回帰を目指しているようにも読めます
(ジェィンズはグルジェフの著作からもインスパイアを得ているかも
しれません)。







2014/08/14

第6冊 ゲーム脳は愛より世界を救う『ハイスコア・ガール』押切蓮介 



ハイスコアガール(1) 押切 蓮介

「待ちガイル!!」

ってフレーズが懐かしいあなたは、読んでますよね。
読んでませんか、読むべきです。

著作権をめぐるアレコレで取り沙汰
されていたので、つい読み返してしまいました。
ファネッフー。

ゲーム脳、もしかして凄いんじゃないですか

 

ゲームは時間の浪費だったんじゃないか?
青春をぜんぶゲームに吸われてしまった!

……なんて、思うコトなかれ。

浪費して何が悪いのです。
人生はヒマつぶしです。
そして、あれはまぎれもなく、青春だったのです。

 このブログだって、人生の重要な諸課題を
そっちのけで書かれています。なんの益もないのに、
ただひたすら自己満足のために(笑)。

1990年代、ゲーセンや玩具屋、駄菓子屋の店頭で
「ストリートファイト」が行われていた時代の、アノ空気。

あれがただの時間と金の浪費ではなく、とてつもなく
愉しい、かけがえのない時間だったのだと
再認識させてくれる、そんな作品です。


つながる力、察する力、パクる力



で、また本筋と違うところで語ってみたいと思います。

当時のゲーセン文化を思い返してみて面白いのは、
ある種の「場」が出来ていたこと。
  • 当時、貼り紙なんかなくても、ローカルルールは
    いつの間にか把握していた
  • ネットもないのに技術的ノウハウがたちまち
    知れ渡っていた。パクりパクられ、を繰り返して
    いるうちに、一人では絶対に到達不可能な
    技術レベルに達する
  • 動きや戦術から、プレイヤーの腕前、ひいては
    性格(?)まで、何となくアタリがつけられた
    (気になれた)。そのおかげで、トラブルメーカーを
    事前に回避したり、場合によってはゲーセン友達ができた
  • ゲーセンのノートを介した、誰に届くか分からない
    或る意味不毛なコミュニケーションが、愉しく続けられていた
……といった、今考えると、どうやってやったのか、
どうしてそうなったのかが今ひとつ分からないことを
みんな自然にやってのけてたわけです。

まあ、プレーリードッグでもコミュニティを作って
言語で意思疎通しているくらいですから、これくらい、
人間様ならお手の物でしょうが、ゲーム脳もなかなか、
捨てたもんじゃないと思います。


  →7DE-001『動物感覚 アニマルマインドを読み解く』参照

妄想やゲームの中でとはいえ、我々ゲーマーほど
何度も弱きを助け、悪しきを挫き、世界を救ってきた
人種はいないと思いますし(笑)。

そうそう、無理矢理これまで読んだ本に関連付けるならば、
格闘ゲーム華やかりし頃、ゲームセンターという、
あの薄暗くてギスギスして不健康そうな(笑)「場」には、
それでも内田樹さんの言うところの「祝福」が満ちていたのです。

   →7DE-002,3 『呪いの時代』内田樹 & 『虐殺器官』伊藤計劃参照 

その場、その時、そのマッチングでなくては為し得なかった
プレイが目の前で展開したときの無言の賞賛(もちろんその
逆もあったりしましたけど(笑))。


あの場には、確かに「そういうもの」があった。


ソーシャルゲーム、ネットゲーム全盛の今、あの空気を妙に懐かしく
感じるのです。もはや、20世紀生まれの懐古趣味なのかも
しれないですけどね。

第5冊 唯一の欠点は、ロシア系の名前が憶えづらいこと 『春風のスネグラチカ』沙村広明

「私がシシェノークの手を煩わせる事無く
土の上を動き廻ることなど絶対にあり得ません」



春風のスネグラチカ 沙村広明


『無限の住人』『ハルシオンランチ』等の沙村作品を
愛読してきた身としては、果たして今回はどんな……
と思っていたら、まだ「若い」ソヴィエト連邦を舞台にした、
歴史ミステリー!

いやぁ、色々引き出し持ってますねぇ。
で、ミステリー的な謎解きの部分に踏み込まずに、
ブンガク的な方法であえて読み解いて、頭イイ人のフリを
してイイ気分に浸ろうというのが、本記事の目的です(笑)。

「ソ連、世界史の時間に習ったよ」

……という言葉を十代の若者から聞いて、先日ちょっと
ショックを隠しきれませんでした。そういえば。
余談でした。

物語は1933年のソヴィエト連邦から始まります。
車椅子の少女とその従者の青年の正体は?
彼らがこだわり続ける共産党管理下の「別荘」に
隠された謎とは……?

……とミステリーとしても面白いのですが、
こんな最果ての地のブログですから、
上記のとおり、あえて本筋から外れた部分に着目してみます。


信仰の地下水脈


本作では、ロシアの持っていた宗教的伝統(ロシア正教)や、
オカルティックな知識・技能(チベット医学)が、「科学的」な
共産主義による統治下でひっそりと隠れて息づいている様が、
作品世界に奥行きを与えています。

私が趣味でやっている「システマ」というロシア生まれの
武術がありますが、その思想的ルーツはロシア正教だったようで、
ソヴィエト連邦統治下にあっては、やはり深く静かに、
受け継がれていたようです(今や世界展開中ですが)。

本作でも、宗教を否定されているソヴィエトの国民は、
ロシア正教を表向き捨てたことになっているわけですが、

「スープの肉を時々残しているようですが、
斎戒日を気にしておられますか?」
「!!…………いや、気にするわけがなかろう」

……と、引用したセリフですぐ分かるくらい、聞かれた
側のオッサンは動じてます(笑)

やはり、人間の信仰ってのはなかなか変えられない。
どこかで偉大なるもの、善なるものとつながっていたい
のでしょう。

私は、共産主義というのは、合理的な思考をとことん
突き詰めた末にできた考え方だとは思っていますが、
私が共産主義に感じる致命的な欠陥は、人間というものが
もとから合理的には出来ていないことを、勘定に入れて
いないことです(笑)。
 本作のメインキャラたちは、皆クセがあり、一見
とっつきにくい連中ですが、読み終わる頃には、何となく、
この連中が好きになってしまう。おそらくは、彼らの行動が
物凄く「人間臭いから」です。 合理性などくそくらえ。
「きれいはきたない」ってヤツです。

非合理でいいじゃない、人間だもの

共産主義社会というとっても「合理的なシステム」
の中で、彼らは自分たちのコダワリのままに、
とことん、非合理に邁進します。

「従者の手を煩わせないと動けない車椅子」に象徴されるように、
本作は、合理的なシステムの中で、人間の不合理さが、
ある種のしぶとさ、強さ、生命力として描かれています。

ミステリーとしてのネタがばれないように書くと、

「助けるべきでないものを助ける」
「追求すべきことを追及しない」
「崇拝するものを汚す」
「自らを虐げてきたものを助ける」

……といった塩梅。

そして、主従関係に思われたモノが実は……?
というのがミステリーとしてのキモでもあるのですが、
読んだ方ならお分かりの通り、この主人公二人は
関係性にしても考え方にしても合理性とは対極なのです。
だが、そこがいい、のです。

『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木先生にならって言うなら、
本作もまた、 「人間賛歌」なのです。不合理で利己的で
泥臭くて目の前の相手のことを慮るので精いっぱいの
奴ら。

そんな奴らに会えるだけで、十分モトは取れる、ってもんです。


 

以下、蛇足です。
さらに本筋から離れます。

本作ではヒマラヤの薬草学というのが、ひそかに
重要な役割を果たしますが、19世紀末~20世紀初頭
というのは、欧米圏で東洋的なオカルティズムが
やたらと幅をきかせていた時代でもありました。

19世紀末には、オカルト好きにはたまらない、
ロシア出身のブラヴァッキー夫人が神智学協会を
ニューヨークにて設立。
20世紀初頭には、グルジェフが帝政ロシアに
チベット密教の秘儀をもたらしています。

オカルティズムの台頭は、
急速に合理的な思想・体制が組みあがっていく
時代の、 人間の非合理的な面の側のせめてもの
抵抗だったのかもしれません。

「だった」と書きましたが、この一世紀前の状態から、
実は状況はそんなに変わっていない気もします。

このへんも、また掘り下げてみたいと思います。

2014/08/11

第4冊 偉人の父は、エラい奴だった 『夢酔独言』勝小吉


夢酔独言 勝 小吉

素行真っ黒のバイオレンス御家人

おれほどの馬鹿な者は世の中にあんまり有るまいとおもふ。
故に孫やひこのために、はなしてきかせるが、能能不法もの、
馬鹿者のいましめにするがいゝぜ
あの勝海舟の父親の自叙伝が上のような序から始まるので、
どんな説教臭い話になってしまうのか、と思ったら、 さにあらず。

色んな方の自叙伝を読みましたが、これは間違いなく
トップクラスに面白いです。

前半を駆け足でざっと紹介してみましょうか。

幼い頃から暴れん坊で、強情で、わがまま。
7歳にして数十人の子どもを相手に脇差しを
持ち出して大げんか、14歳にして家の金を
ちょろまかして出奔、その金を盗まれても
乞食をしながら乗り切り、18歳の頃には
かなりの剣の腕を誇り、剣術の他流試合の
コーディネーターをつとめるも、日々喧嘩に
あけくれ、狼藉が過ぎたために21歳で実父に
座敷牢に叩き込まれ……。

ちなみに、勝海舟(幼名・麟太郎)は、小吉
が座敷牢に入獄している間に生まれています。

そんじょそこらの犯罪小説はだしです。
ひどい。

喧嘩喧嘩に盗みはするし、借金だらけなのに
手元にお金があれば吉原で散財するし、でも
金には困っているから物売りでも刀剣ブローカーでも
用心棒でもやるし、だけどやっぱりお金があると
周りにも気前よく振る舞ってしまう。とはいえ、
だからこそ、周囲からの信望は厚かったりもする……。

それらのことを、ことも無げに淡々と書いています。
このさらりとした筆致が、たまらなく面白い。

例えば、素行が悪すぎて36歳のときに、怒り心頭の
兄に「パワーアップ版・二重囲いの自家製座敷牢」に
入れられそうになったときのこと。

「入れられたくなかったら、改心しろ」と何とか仲裁
しようとする姉に対して、「死ぬ覚悟で来たから
すぐ牢に入れてくれ」と逆に迫る勢い。扱いに
困った姉から「一先(ひとまず)内へ帰れ」と
言われて帰ったのち……以下のように記してあります。


夜五ツ(午後8時頃)時分じぶんまで呼に
来るかと待っていたが、一向う沙汰がないから、
其晩は吉原へ行って翌日帰った。



座敷牢に入れられる方向に話が進んでいるというのに、
その沙汰をしばらく待って「一向う沙汰がないから、
其晩は吉原へ行って翌日帰った」とサッパリしたものです。


全編、こんな調子です。


善し悪しはともかくとして、ここまで人目を
はばからず、したいように生きて、いつ死んでも
いいと思っているような生き様は、「凄い」と
思ってしまいます。


でも息子思い、だけどさ。


こんな父親でさぞや勝海舟も大変だったろうとは
思いますが、勝海舟、当時9歳が犬に睾丸を
かまれて生死の境をさまよったときのくだりには、
息子を深く愛していた、ということを示す行動も書かれています。

篠田と云う外科を地主が呼んで頼んだから 傷口を
縫ったが 医者が振えているから俺が刀を抜て枕元へ
立て置て りきんだから、息子が少しも泣かなかった故、
漸々縫って仕舞ったから容子を聞いたら、
「命は今晩にも受け合は出来ぬ」 と云ったから、内中の
やつは泣いて計りいる故、思うさま小言を云って叩き散らして、
其晩から水を浴びて金比羅へ毎晩裸参りをして祈った。
始終俺が抱いて寝て外の者には手を付させぬ。毎晩々々暴れ散らしたらば、
近所の者が、「今度 岡野様へ来た剣術遣いは、子を犬に喰われて気が違った」
 と云いおった位だが、到頭 傷も直り七十日目に床を放れた。
夫から今になんともないから、病人は看病が肝心だよ。

えーと……はい。
金比羅へ毎晩裸参り」とか「始終俺が抱いて……」 とか
息子思いな感じですね。

でもちゃんと「毎晩々々暴れ散らし」てます。
さすがです。
ぶれません。

で、それも例によってさらりと書いて、最後は
病人は看病が肝心だよ」となんだかいい話ふうに
しめくくっています。

序に「馬鹿者のいましめにするがいゝぜ」と書いているわりに、
悪行をはたらいたときの記述に対してほぼ全く悪びれた感じがない、
この「お前実は自慢したいだけだろ」とか「本当に反省してんのかよ」
と読者に思わせる絶妙な筆致が、本書の最大の魅力であります。

下手な自己啓発本を読むより、よほどクヨクヨしなくなります。
おすすめです。


夢酔独言 勝 小吉


2014/08/05

第2&3冊 disる言葉が、今日もどこかで増えてます『呪いの時代』内田樹 & 『虐殺器官』伊藤計劃


呪いの時代 (新潮文庫): 内田 樹

現代の「呪い」

忘れられやすいことですが、呪いが機能するのは、それが
記号的に媒介された抽象物だからです。具体的、個別的、
一回的な呪いというようなものは存在しません。
あらゆる呪いは、抽象的で、一般的で、反復的です。
それが記号的ということです。
(本書「祝福の言葉について」より)

自分たちの言葉が記号的に増殖し、現実の殺人者に
「殺す根拠」を備給する可能性について想像したことは
あるのでしょうか。
(同上)

相手を打ちのめし、否定するために放たれる言説を
「呪い」の言説と呼ぶ切り口に、「これは」と思って
一気に読んでしまいました。

言霊信仰、という概念がありますが、私は、毎年年を
重ねるにつれて、言霊というのは実にもっともな仮説だな、
と思うようになっている気がします。

徒手療法という商売柄、自分の放った一言が、良くも悪くも
かなり強力に患者さんの生活を変えてしまうことを実感する
せいもあるかもしれません。

また、これをお読みのあなたも、きっと、辛い時にふと
思いだすお守りのような言葉や、逆に、今
思い出しても心をえぐるような言葉があると思います。

本書では、現代をその後者、「呪い」に満ちた、
「呪いの時代」である、と述べます。

冒頭に引用したように、人々が、明確な相手の
いない空間に向かって放った記号的な「呪い」が、
何かの拍子に、だれかの悪意を後押しし、彼彼女が
ほかのだれかを攻撃する根拠となってしまう、
という世界観は、今の社会に私が感じる気持ち
悪さをかなり上手く説明してくれている気がします。


「呪い」はめぐる


国家や民族、宗教、病名などのレッテルや、
そのレッテルを貼られた人たちへの「呪い」が、
延々と再生産され続ける(例えば隣国への呪詛/
隣国からの呪詛は言うに及ばず、極端なことを言えば、
「リア充爆発しろ」だって冗談ではありますが、十分
呪いです)というのは今にはじまったことではないわけで、
「呪い」はずっとあったのでしょう。

それを、「呪いの時代」と名付るに足るまでの状況に
なっているのは、インターネットのウェブサイト上で、
容易に言葉をやりとりし、「呪い」を可視化できる
ようになったのが大きいのかもしれません
(可視化できるうえに、なかなか消えません)。



もはや着地点を探ろうなんて最初から
お互いに思っていない、議論のフリをした空虚な
「呪いの撃ち合い」をそこここで見かけるに
つけ、「呪い」の厄介さを思い知るのです。 
本来ネットなんて接続を切ってしまえば
それまで、と言いたいところなのですが、
ネット経由で世界に繋がるほうが楽な人、
ネット経由で世界に繋がらないと怖い人が
増え続けている以上、この「呪いの撃ち合い」は、
とどまらず……

……そんな状況を思い描いて、
連鎖的に思いだしたのがこの本でした。


虐殺器官: 伊藤 計劃


数年前にSF小説としてはかなり売れた(?)
『虐殺器官』です。読まれた方にはしっくり来ると
思いますが、人間を虐殺や戦乱に導く言説の結晶、
「虐殺文法」というアイデアは、内田樹さんの言うところの
「呪い」をもっと純化(悪い方へ)させたものだと思うと
しっくりきます。






ハヤカワSFなのに売れた(笑)『虐殺器官』


おそらくは「呪い」の気持ち悪さみたいなものを
感じている人が少なからずいるからこそ、
『虐殺器官』は売れたんだろうなぁ、と思います。

故・小松左京さんが「虐殺文法」があまりに曖昧で
具体的に描かれていないことを理由に『虐殺器官』の
授賞に反対したという話がありますが、「呪い」の
気持ち悪さを感じている人からしたら、「虐殺文法」は
曖昧で抽象的であるからこそ「怖い」のだと思います。


言葉があるから呪いは生まれる?


バベルの塔神話は言葉の混乱がのちの
人々の争いを生んだとしていますが、
そもそも言葉そのものが、便利な反面、
実態を離れたレッテルを対象とした憎しみを
生み、育む、「呪い」の温床としての機能を
持ってしまっている、とすら私は思っていますが、
だからこそ同時に、「呪い」に対するカウンターに
なるとも思います。

『呪いの時代』で内田樹さんが提唱している
処方箋も、すごく簡単に言ってしまうと、
「祝福」です。

「祝福」は個別性、具体性を取り上げて
認めることによって、むしろ「祝福」の対象を
深く無限のものとして肯定してみせることだ、と
内田樹さんは述べます。

この論を読んで、Facebookの「いいね!」ボタンに
対して私が感じていた微かな違和感の正体が、
少し分かった気がしました。

この「祝福」をあまりにシステマティックに、
しかも個別性や具体性を排除した形で行えて
しまうから、でしょう。墓参りをネットで済ますことに
似た違和感ですね。

自分の商売柄もありますが、この「呪い」に
満ちた状態を生き抜くためには、この個別性や
具体性の極み、すなわち自分の身体に還ることが
とても大事なように感じています。

……まあ、これは書くとまた長くなるので、他の
本(たぶん、「呪いの小説」『陋巷に在り』)の
感想とからめつつ。

それでは。

第1冊 人間だって動物です『動物感覚 アニマルマインドを読み解く』


動物感覚―アニマル・マインドを読み解く

ためになる奇書

 

とにかく、すごい本に出会ってしまったなぁ、という感じです。

『動物感覚』というタイトルではありますが、
本当に色々な読み方ができます。

 実用書であり哲学書であり科学書であり、
みずみずしいエッセイでもあります。

「動物といかに付き合うかについての本」であり、
「人間と動物との違いについての本」であり、
「自閉症についての本」であり、
「自閉症と動物の考え方の類似性についての本」であり、
「人間がどこまで動物で、動物がどこまで人間であるか
についての本」であり。

もしかしたら自己啓発書チックな読み方をして、
「皆が見落としてしまう問題を見つけ出し、解決する方法の手引き」としても、
「人間関係や組織の在り様についてのヒントを
与えてくれる本」としても、
役立てることが可能(かもしれません)。

なぜ、自閉症と動物感覚が関係あるの?


動物についての本が、どうして自閉症に関係するの?
と思われた方もいるかもしれません。

著者のテンプル・グランディンは、
自身も自閉症の動物学者です。

彼女は、自分が自閉症であるがゆえに
動物が何を見、何を感じているかが
わかるという自身の経験から、サヴァン自閉症
の人が示す特異な能力(見たままの絵を書く、
異常な記憶力を持つ、等)と、動物が示す能力
(予知とも思えるような知覚や、膨大な餌場を記憶して
おく空間認知など)が似たもの、もしかしたら同じもの
なのではないか、という着想を得て、その着想を
皮きりに、人間と動物の在り様を様々な角度から
切り出していきます。


この切り口、そして内容が、やたらと私に
響いたのは、おそらく私自身が、
自閉症スペクトラムとか発達障害と呼ばれる
ものに位置付けられてもおかしくないタイプの
性向を持っているから、ということもあると思います。


私は子供の頃、弁当を食べるだけで、 昼休みが
ほぼ終わってしまうくらい、ひどくマイペースでしたし、
また、クラスメートの名前を夏が過ぎる頃まで
憶えなかったり、ひとつ前の席の女の子がメガネを
かけてきただけで、「転校生」と認識したり、といった
具合でしたので、テンプル・グランディンの幼少期の
エピソードも、共感できる部分が少なからずありました。


そういう目で、本書を素直に読んでいくと、
ああ、人間といっても動物だから、こんな行動を
とってしまうのか、と目からウロコが落ち続けます。

 

人間。動物的な、あまりに動物的な


私が本書から受け取ったメッセージのひとつは、

「動物はおどろくほど人間的で、
人間はおどろくほど動物的であり、
人間は、さほど特別な動物ではない」

ということです。

言葉にしてしまえばシンプルですが、例えば、本書では
われわれ人間も動物も、ものごとの間に因果関係を感じる
仕組みをひとしく持っていると説明します。

動物と人間は、「確証バイアス」と学者が呼ぶものを、生まれつきもっていることがわかっている。ふたつの事柄が短時間のあいだに起こると、偶然ではなくて、最初の事柄が2番目の事柄を引き起こしたと信じるようにつくられているのだ。

(中略)

確証バイアスが組みこまれているために生じる不都合は、根拠のない因果関係までたくさん作ってしまうことだ。迷信とは、そういうものだ。たいていの 迷信は、実際には関係のないふたつの事柄が、偶然に結びつけられたところから出発している。数学の試験に合格した日に、たまたま青いシャツを着ていた。品評会で賞をとった日にも、たまたま青いシャツを着ていた。それからとは、青いシャツが縁起のいいシャツだと考える。
 動物は、確証バイアスのおかげで、いつも迷信をこしらえている。私は迷信を信じる豚を見たことがある。
(中略)

人間と動物はまったく同じやり方で迷信をこしらえる。私たちの脳は、偶然や
思いがけないことではなく、関連や相互関係を見るようにしくまれている。しかも、
相互関係を原因でもあると考えるようにしくまれている。私たちが生命を維持する
上で知っておく必要のあるものや、見つける必要があるものを学ばせる脳の同じ
部分が、妄想じみた考えや、陰謀めいた説も生みだすのだ。

(第3章 動物の気持ち p134~136)
 人間が、どれほど自分では理性的に考えているつもりでも、
この確証バイアスからはなかなか自由になれないわけで
人間が知恵をつけたつもりでも、実はものごとの捉え方としては
とっても「動物的」なまま、ということになるのですね。


脳の構造としても、人間は他の動物の脳に比べ、新皮質という最上部の
層が分厚くなっていますが、他の動物の脳を「建て増し」したような構造に
なっている、と言われます。


もっともらしく後知恵をつけても、行動原理はかなり動物的だったりする
のは、こうした脳の構造から言ってもある意味当然と言えば当然なのですが、
動物学者の知見から実例を挙げられると、もはや清々しいくらいです。


著者に言わせれば、新皮質、わけても前頭葉の機能が、
人間の動物的な特殊能力を減じている面もあり、
前頭葉の機能が抑制されている自閉症者に動物的な才能が
開花するのは当然、ということになるかもしれません。


思いあがるな人間


こういうことは人間の十八番だろう、と思われることや、人間ならではの
高度な知能がないと(良くも悪くも)出来なさそうなこと、逆に人間には
とても出来なさそうなことを、動物がやすやすとこなしてしまう例もほんとうに
色々紹介されています。

渡り鳥が六五〇キロの経路を誤らずに憶えたり、ハイイロリスが
木の実を埋めた場所を何百か所も憶えていたり。
戦争をするチンパンジーもいるし、 集団レイプや虐殺をしてみせるイルカもいるし。
クジラは韻を踏んで歌い、ウタスズメは即興でソナタを歌う。

特に私が驚いたのは、以下の例。
(前略)
プレーリードッグのコロニーには、名詞、動詞、形容詞をそなえた意思伝達
システムがあることを発見した。ガニソンプレーリードッグは、どんな種類の
捕食者――人間、タカ、コヨーテ、犬(名詞)――が接近しているのか、
捕食者がどんな速度で移動している(動詞)のか教えあう。人間が銃を手に
しているのかいないのかも知らせる。
(中略)

人間が近づいてくるのを知らせるときには、体の大きさや形ばかりか着ている
服の色(形容詞)まで教える。ほかにもいまだ解読されていない鳴き声は
たくさんある。
(p359-p360)
プレーリードッグがここまでの言語を用いているとは、正直驚きでした。
人間は自らを万物の霊長と思っていたりしますが、賢い、賢くないの尺度が
人間ベースなだけで、まぁ、人間の思い上がりなのかもしれません。

動物だ、と思って生きる


単純に雑学を仕入れるために読んでも充分面白い本ですが、いま
何らかの生きづらさを感じている方にも、うすっぺらな対人関係の本を
100冊読むよりも、これを1冊読むことをお勧めします。


読書に慣れていない方とかは、うすっぺらな本を100冊読むより
大変かもしれませんけど(笑)、内容の面白さと編集者や翻訳者の
技量のおかげで、分厚いのに飽きずに読み進められます。


この本の凄い所は、一読したのち、自閉症もそうでない人も含めた人間に
対しても、動物に対しても、これまでとは明らかに見る目が変わる、ということです。


いきなり本にいどむのはチョット、という方は、著者のTEDでの講演を
ご覧になると良いかと思います。私はこれで、彼女のファンになりました。


動物感覚―アニマル・マインドを読み解く