2014/08/05

第2&3冊 disる言葉が、今日もどこかで増えてます『呪いの時代』内田樹 & 『虐殺器官』伊藤計劃


呪いの時代 (新潮文庫): 内田 樹

現代の「呪い」

忘れられやすいことですが、呪いが機能するのは、それが
記号的に媒介された抽象物だからです。具体的、個別的、
一回的な呪いというようなものは存在しません。
あらゆる呪いは、抽象的で、一般的で、反復的です。
それが記号的ということです。
(本書「祝福の言葉について」より)

自分たちの言葉が記号的に増殖し、現実の殺人者に
「殺す根拠」を備給する可能性について想像したことは
あるのでしょうか。
(同上)

相手を打ちのめし、否定するために放たれる言説を
「呪い」の言説と呼ぶ切り口に、「これは」と思って
一気に読んでしまいました。

言霊信仰、という概念がありますが、私は、毎年年を
重ねるにつれて、言霊というのは実にもっともな仮説だな、
と思うようになっている気がします。

徒手療法という商売柄、自分の放った一言が、良くも悪くも
かなり強力に患者さんの生活を変えてしまうことを実感する
せいもあるかもしれません。

また、これをお読みのあなたも、きっと、辛い時にふと
思いだすお守りのような言葉や、逆に、今
思い出しても心をえぐるような言葉があると思います。

本書では、現代をその後者、「呪い」に満ちた、
「呪いの時代」である、と述べます。

冒頭に引用したように、人々が、明確な相手の
いない空間に向かって放った記号的な「呪い」が、
何かの拍子に、だれかの悪意を後押しし、彼彼女が
ほかのだれかを攻撃する根拠となってしまう、
という世界観は、今の社会に私が感じる気持ち
悪さをかなり上手く説明してくれている気がします。


「呪い」はめぐる


国家や民族、宗教、病名などのレッテルや、
そのレッテルを貼られた人たちへの「呪い」が、
延々と再生産され続ける(例えば隣国への呪詛/
隣国からの呪詛は言うに及ばず、極端なことを言えば、
「リア充爆発しろ」だって冗談ではありますが、十分
呪いです)というのは今にはじまったことではないわけで、
「呪い」はずっとあったのでしょう。

それを、「呪いの時代」と名付るに足るまでの状況に
なっているのは、インターネットのウェブサイト上で、
容易に言葉をやりとりし、「呪い」を可視化できる
ようになったのが大きいのかもしれません
(可視化できるうえに、なかなか消えません)。



もはや着地点を探ろうなんて最初から
お互いに思っていない、議論のフリをした空虚な
「呪いの撃ち合い」をそこここで見かけるに
つけ、「呪い」の厄介さを思い知るのです。 
本来ネットなんて接続を切ってしまえば
それまで、と言いたいところなのですが、
ネット経由で世界に繋がるほうが楽な人、
ネット経由で世界に繋がらないと怖い人が
増え続けている以上、この「呪いの撃ち合い」は、
とどまらず……

……そんな状況を思い描いて、
連鎖的に思いだしたのがこの本でした。


虐殺器官: 伊藤 計劃


数年前にSF小説としてはかなり売れた(?)
『虐殺器官』です。読まれた方にはしっくり来ると
思いますが、人間を虐殺や戦乱に導く言説の結晶、
「虐殺文法」というアイデアは、内田樹さんの言うところの
「呪い」をもっと純化(悪い方へ)させたものだと思うと
しっくりきます。






ハヤカワSFなのに売れた(笑)『虐殺器官』


おそらくは「呪い」の気持ち悪さみたいなものを
感じている人が少なからずいるからこそ、
『虐殺器官』は売れたんだろうなぁ、と思います。

故・小松左京さんが「虐殺文法」があまりに曖昧で
具体的に描かれていないことを理由に『虐殺器官』の
授賞に反対したという話がありますが、「呪い」の
気持ち悪さを感じている人からしたら、「虐殺文法」は
曖昧で抽象的であるからこそ「怖い」のだと思います。


言葉があるから呪いは生まれる?


バベルの塔神話は言葉の混乱がのちの
人々の争いを生んだとしていますが、
そもそも言葉そのものが、便利な反面、
実態を離れたレッテルを対象とした憎しみを
生み、育む、「呪い」の温床としての機能を
持ってしまっている、とすら私は思っていますが、
だからこそ同時に、「呪い」に対するカウンターに
なるとも思います。

『呪いの時代』で内田樹さんが提唱している
処方箋も、すごく簡単に言ってしまうと、
「祝福」です。

「祝福」は個別性、具体性を取り上げて
認めることによって、むしろ「祝福」の対象を
深く無限のものとして肯定してみせることだ、と
内田樹さんは述べます。

この論を読んで、Facebookの「いいね!」ボタンに
対して私が感じていた微かな違和感の正体が、
少し分かった気がしました。

この「祝福」をあまりにシステマティックに、
しかも個別性や具体性を排除した形で行えて
しまうから、でしょう。墓参りをネットで済ますことに
似た違和感ですね。

自分の商売柄もありますが、この「呪い」に
満ちた状態を生き抜くためには、この個別性や
具体性の極み、すなわち自分の身体に還ることが
とても大事なように感じています。

……まあ、これは書くとまた長くなるので、他の
本(たぶん、「呪いの小説」『陋巷に在り』)の
感想とからめつつ。

それでは。

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