2014/09/13

第9&10冊 足から人を観た探求者たち 『足の裏は語る』&『体癖』

足の裏は語る (ちくま文庫) 体癖 (ちくま文庫)

奇しくも、どちらもちくま文庫です。


妙にマニアックな身体論、身体哲学についての本が
出版されるのは、筑摩書房にはきっとそういうのが
大好きな編集さんがいらっしゃるんでしょう。


『足の裏は語る』の著者、故・平沢弥一郎先生は、
「足の裏博士」の異名をとる著名な医学博士で、
人間の足の裏をひたすら計測・研究して50年
その数は何と40万人以上

本書の中でも、男性がタマとサオをズボンのどちらに
入れるのが定位置か、と二千人以上のスポーツマン相手に
検証したり、排泄時の重心変化について女子大で調査したり、
まあ、変態です(褒め言葉です)。


一方の『体癖』の著者、故・野口晴哉先生は、
整体の指導者。整体という言葉が人口に膾炙する
ようになったのは、この方の働きあればこそ、でしょう。

 本書を読めばわかりますが、実は野口先生も、
足の裏の重心配分を測定できる機材を用いて、
「体癖」(野口先生の造語。人間の体の構造や感受性の
類型を12種に分類したもの)研究の一助としたようです。
この方は、一日に百人以上も整体指導したとか。
やはり変態です(褒め言葉です)。


面白いのは、この二人の研究が、ときどき交差すること。
その「交差点」にある考え方は、足裏への重心のかかりかたと生き方、
個性などにある程度の相関があるのではないか、ということです。

心と体は繋がっている……ではなくて、本来境目なんかないって
ことです。ひとことでいえば「心身一如」。

『足の裏は語る』では、

足長を百とした場合重心の位置が、
二十年前は踵から四十七パーセント周辺にあったものが、
最近ではその位置が四十パーセントあたりまで後退してきた

(『足の裏は語る』p96)
……とありますが、それは別に、人が徐々に体を使わなくなっているから、
ではなくて、気の持ちよう、「気構え」、即ち希望を抱いて行動する性質が
落ち込んできているからではないか、という仮説を提示します。

「何だよ、結局は精神論かよ」と侮るなかれ。
この平沢先生、精神状態によって足の裏のコンディションが
どう変わるか、まで延々と観察してきた人なのです。

女性の精神状態があまりよろしくない場合に、小指側が浮く……
といった話が、本書にも登場します(おそらくは、奥様が最初の
実験台だったのではないかと邪推します。余談ですが、本書では、
平沢先生の亭主関白な振る舞いに奥様がキレて、それまで
日々お子様の足裏を記録し続けていた資料を全部燃やしてしまう、
というエピソードまでぶちまけられていて、素敵です)。


野口晴哉先生の「体癖」に至っては、もはや個性と体の状態は
イコールという考え方で、『整体入門』という本には、性格を体操によって
変えられるのでは、という発想まで登場しています。

本書でも、整体指導を受けに来た人たちの体を見て、
「この人は●●種体癖だから、きっと、逆の事を言った方が
言うことを聞くな」みたいなことを考えて指導して結果が
出た話を自慢……もとへ、披露しています。


10歳差くらいの方々なので、いっそのこと共同研究ができていたら
さぞや面白かったろうと、後世から勝手に思うのでありますが、
それぞれの本からうかがえるそれぞれのキャラクターを思うと、
まあ、たぶん組むことはなかっただろうし組んでもすぐケンカ別れ
しそうだなぁ、とは思います(笑)。

人をこんな風な切り口で捉えるのもアリなのか……と、
二冊とも非常に楽しくて目からウロコでした。


余談

こちらの『姿勢のふしぎ』でも、姿勢と精神状態の
関係は論じられています。自閉症の人は重心がランダムに
動揺しやすい、みたいな話もあり、『足の裏は語る』や『体癖』と
ともに読むとまた面白いかもしれません。


姿勢のふしぎ―しなやかな体と心が健康をつくる (ブルーバックス)

『動物感覚』の著者で本人も自閉症のテンプル・グランディンが
「抱きしめ機」と自閉症について自著で語っていますが、皮膚感覚とともに、
重心の動揺がなくなる、というのも重要だったのかもしれません。

 → 参考:第1冊 人間だって動物です『動物感覚 アニマルマインドを読み解く』







2014/09/09

第8冊 四十にしても惑いまくり! 『身体感覚で『論語』を読みなおす』安田登


身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から: 安田 登

能楽師にしてロルファー(※ロルフィングというアメリカ発の
ボディワークの施術者)でもあり、漢和辞典編集にも関わった
ことがあるという著者が、孔子が活躍していた頃の漢字の字形、
甲骨文・金文までさかのぼり、漢字に込められた身体イメージから
新たな『論語』の読みを提案してみせる、という野心作。


四十になっても、多分、惑ってたっぽい


面白いのは、「心」という字が、孔子の時代はまだ五百年程度の
歴史しかなく、現在の「したごころ」や「りっしんべん」に
当たるパーツを持つ字が、ほとんど存在しなかったこと。



その一例が「惑」です。


カンの良い方は、この時点で「えっ!?」と疑問に思ったかも
しれません。そう、『論語』でも有名な、

「四十而不惑

の「惑」の字は、孔子存命の頃、まだ地上に存在していなかったのです。


では当時、いったいどういう意味で(どのような漢字をイメージして)孔子は
この言葉を語ったのか、というところで、著者は、それは「或」という字だった
のではないか、と推測します。



仮に「境界によって区切ること」を意味する「或」を用いて

四十而不或

と述べていたとすると、

「そんな風に自分を限定しちゃいけない、
もっと自分の可能性を広げなきゃいけない」
(p23)

……という意味になるのです。


全然違うやん。

安田説がより正解に近くて、新たな可能性を探り続けて
いたとしたら、もう、惑いまくりだと思います、孔子。




「惑」を皮切りに、当時まだまだ新興の概念だった
「心」というものとの付き合い方が、現在のわれわれと
違ったのではないか、という風に論を進めて、
『論語』とは、「心」の取り扱いをはじめてマニュアル化
したものなのではないか、と論じます。


著者は、自分が能楽を修行した経験と、漢字研究の成果を
それぞれ駆使して『論語』を「心」の操縦マニュアルとして
読み解いていきます。


漢字を通した、当時の世界観への言及などもありつつ、
前回、当ブログでもネタにした『神々の沈黙』も引用されており、
構想としては、おそらく「近東に限って話をしている」『神々の沈黙』への、
東洋からの「返歌」を目指したのではないかと思われます。


確かに、甲骨文や金文の漢字のデザインから見え隠れする古代中国人たちの
世界観は、意識が「比喩から生まれた世界モデル」であるとする
神々の沈黙』と響き合う感じがします。


古代の身体感覚と現代の我々の溝を埋めるための補助線が、
はるかに現代寄りの「能」でいいのか、という批判もあるかもしれませんが、
古代の漢字とそこに込められていた呪術的な意味や身体感覚を通して
論語を読んでみるという試みは、とにかくユニークです。