2014/10/26

第33冊 サン○ルの二番煎じじゃないんだぜ『選択の科学』

選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義 (文春文庫)

選択の全貌を明らかにすることはできないが、
だからこそ選択には力が、神秘が、そして並はずれた
美しさが備わっているのだ(単行本版p329)
24種類のジャムを試食できるようにした場合と、
6種類のジャムを試食できるようにした場合とを比較すると、
前者の売り上げは後者の10分の1しかなかった……
というような、著者を有名にした実験を皮切りに、
選択というものに実に色々な角度から焦点を当てた本。


「コロンビア大学白熱教室」という番組があったもので、
漠然と、サンデ○さんのやつが受けたから出たドジョウ本
なのかな、と思って何となく避けていたのだけど、
読んでみたら面白い本でした。


不自由でもストレス、自由すぎてもストレス

選択の自由がないことはストレス。
でも、選択の幅がありすぎてもストレス。

本書は最初、動物実験の結果などから、動物園の動物が短命な理由を
選択の自由がないことと喝破。人間についても、あまたの例から、

人々の健康に最も大きな影響を与えた要因は、
人々が実際にもっていた自己決定権の大きさではなく、
その認識にあった(単行本版p35)

フランクル博士の『夜と霧』みたいに、自分の認識の枠組みを
変えて、外的な刺激とそこから起きる自分の反応との間にスキマを作れ、
とはかの有名な『7つの習慣』でも習慣以前の大前提として述べられていましたが、
本書の面白いのは、自己決定権が大きすぎることもまた負担になることを
示したこと。

東ドイツ住民はなぜ昔を懐かしがるのか」といった章に書かれた話や
冒頭のジャムの例は、自由の「功罪」を示しています。

そういえば、『神々の沈黙』でも神の声が聞こえるのは意思決定のための
葛藤がストレスだから、という話がありましたね。

  →参考:第7冊『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ


自己啓発本のパターンは国によって変えるべき?


意思決定の範囲の広さがどれくらいだと心地よく感じるか、は
文化圏等によっても影響を受けるようで、例えば、日本人とアメリカ人とでは
何を自己決定したいか、と聞くと上がってくる項目の数が四倍も違う、という
実験結果が紹介されています。


結婚についても、著者であるシーナ・アイエンガーの両親は結婚当日まで
お互いの顔も知らなかった、家族同士が取り決めた結婚であった、という
例を出しながら、必ずしも個人主義的な結婚ばかりが良い訳ではないことを
示します。

例えば、インドでは恋愛結婚の離婚率は、お見合い結婚の離婚率の10倍と
いう数字になるそうです。
※個人的には、その要因は、恋愛結婚での幸福感は時間とともに下がりやすい、という以外にも、自分で望んで恋愛結婚をした人は、自分が望まぬ方向になってきたからその状態を解消する、という選択を行うだけの決断力がある、ということの影響があるとは思いますが。

アメリカ式の自己啓発本は、多く、おのれの人生のビジョンやミッションを
明らかにせよ、決意せよ、というパターンが多いですが、もしかしたら、あの
「自分で何でも思うように決めろ」という方向は、日本人の多くには合わないの
かもしれません。

決めるのは誰の意志?


やむを得ない選択、周囲に流されての選択でも、
人間の奇妙な脳は、それは自分が望んでした選択だ、
と思うようにアッサリ記憶を加工してみせます。

たとえば、仕事について、本書ではこんな研究結果が披露されます。

過去の優先順位を正確に思いだせなかった人ほど、自分の選んだ仕事に対する満足度が高かったのだ。このような幻想で自分を守ったおかげで、自己矛盾を認識せずに済み、初期の調査時に自分がつけた優先順位に義理立てする必要を感じずに、今この瞬間の優先順位に沿った選択ができたのだ(単行本版p127)
大した機能です。

こんな具合に、「選択」にまつわる研究は、ある意味、人間の弱さや強さ、
賢さや愚かさを浮き彫りにしていきます。本書で紹介されている、
ガン撲滅運動のイエローバンドを用いた実験なんて、かなり「残酷」な
実験なのですが、これはぜひご自分で読んでみてほしいです。

家族知人友人、そして何より自分の選択や行動に、ちょっと寛大になれるかも
しれません。


2014/10/10

第29~32冊 働くってどんなことか考え直す 『シャドウ・ワーク』『ナリワイをつくる』ほか2冊

テレビなんかで働くことについての番組を観ると、だいたいが
以下のふたつに分類できるような印象があります。

①仕事に命を燃やし、邁進する個人や企業についての番組
(カンブリア○○とかプロフェッショ○○とか)

②仕事をめぐる制度と現状の解離(長時間労働、妊娠出産との
 兼ね合いや、いわゆるブラック企業問題など)についての番組
(ニュース番組の特集とか教育テレ○の討論番組とか)

いつも違和感を感じるのは、どちらも、それを見る多くの人に
とって、あんまり地に足がついた感じがしないんじゃないかなぁ、
ということです。


働くことについて、だいたい皆さん何らかの悩みがあるのでは
ないかと思いますが、おそらく①も②もその「解消」のためには
役立たないことがほとんどだと思います。

 
①の番組に出てくるプロフェッショナルのように自分の仕事に
情熱を傾けるほど、いまの自分の仕事を愛せているのか、と
言われると、多くの人はうーん、どうでしょう、と唸るのでは
ないでしょうか。愛せよと言われてナカナカ愛せるものじゃない
ですしね。

さりとて、②のように、制度上の問題提起をされて、それは
問題だ、と思うまではいいですが、じゃあ、この「わたし」は
何をどうしたらええんじゃ、という話になるわけです。


今の仕事の中に何かを見出すのか。
別の仕事を探すのか。
そんなことをお悩みのあなたに。
今回は、働くことについて考える時に読んで良かった本と、
逆に読んでエライことになってしまった本をご紹介しましょう(笑)。

人生を盗まれない働き方 『ナリワイをつくる』





各所で話題になっていたのでご存じの方も多いかと
思いますが、オススメの本です。続編も出ていますし、
近い将来文庫化もされるかもしれません。

月収30万稼げるキツイ定職に懸命にしがみつくより、
月収3万程度の仕事(これを、本書ではナリワイと
呼んでいます)を10個確保するような生き方を提案
した本です。

まとまった収入を稼げる仕事というのは、実は競争の
激しい仕事であることが多いため、そうした競争に
向かない「非バトルタイプ」の人はすり減ってしまう、と
著者である伊藤さんは自身が医療系ITベンチャー企業で
働いて消耗した経験から分析し、それに対する
生き方≒働き方の提案として、「ナリワイ」を提唱します。

大手旅行代理店ではまず企画不可能と思われる
「モンゴル武者修行ツアー」や、使われなくなった
木造校舎を使った「婚礼プロデュース」、縄文式
発火法をマスターしたアイドルを売りこむ
「火起こしアイドルのマネジメント」など、様々な
アイデアをナリワイとして結実させたり失敗したり
している様が赤裸々に描かれます。

最低限幾らあれば生きていけるか、
何が得意か、何をしたいか、というところから、
小さなナリワイを作り育てていくという考え方は、
会社勤めしながら副業を育てる時にも使える考え方ですし、
思い切って会社を辞める際にも無理のない計画を立てる
時にも使える考え方です。

あくまで、無理な頑張りはいりません。

このまま会社ですり減って死んじゃうのかな、
みたいな絶望を感じたことのある方は、ぜひ手にとって
いただきたいです。

この本で示されているのは、あとで紹介する『シャドウ・ワーク』で
提起されている問題に対する、ひとつの処方箋だと思います。

仕事を我がものにする 『自分の仕事をつくる』




「働き方研究家」西村佳哲さんの本。

働き方について考える本としては、もはやスタンダードと
いってもいい本です。

「いい仕事」をしたり、仕事を「自分の仕事」として行うための
 ヒントを、現場に訪ねた本。

……と書くと、最初に挙げたテレビ番組のパターンの①に近いのでは、
と思われるかもしれません。

実際、この本のレビューでも、登場する人の職業や働き方が自分の
職業と隔たっているのでいまひとつ参考にならなかった、という意見も
見受けられます。

確かに登場する人がプロダクトデザイナーや建築家といった方が多いので、
いやいやそんな世界の話を聞いたって……と思う気持ちもわかります。

ですが、この本の一番美味しいところは、そうした人々の働き方から
西村さんが抽出しようとしているエキスです。

もちろん会社で働くことと個人で働くことを、対立的に
捉える必要はない。要は仕事の起点がどこにあるか、にある。


私たちはなぜ、誰のために働くのか。そしてどう働くのか。
「頼まれもしないのにする仕事」には、そのヒントが含まれている

と思う。
この本のコアとなる概念は、「自分で自分の働き方をデザインする」という
発想です。自分が仕事に何を求めているかを抽象化して整理するために、
この「西村哲学」に触れる価値はあると思います。


ドラクエ世代向きの労働観?
 『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』


 

タイトルからすると、ガンガン煽ってくる自己啓発書に
見えますが、読んでみるとかなり淡々と論理的な、
しかも地に足のついた本です。

ユニークなのは、『資本論』『金持ち父さん貧乏父さん』
という、まさにお金に関する本に書かれた理論を下敷きに、
お金を目指さない働き方を提案している点です。


『金持ち父さん貧乏父さん』は、「勝手にお金を生んでくれるもの」を
資産と呼び、こうしたもの(株式なり、不動産なり)を増やしていくことで、
「稼ぐために働く」ような「ラットレース」から抜け出すことを
唱えた本ですが、『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』
では、知識や経験、技術をある種の資産と見なします。


ものすごく大雑把に言えば、目先の現金になろうとならなかろうと、
「経験値稼ぎ」ができれば良しとする考え方もありじゃない、と
いうことになります。


これ、労働や苦しみに金銭的対価があるのが当然と思ってしまう
から、働くのが辛かったり理不尽だったりするわけで、例えば
無給薄給状態の徒弟なんて、知識や経験が身につかないのでしたら
ただのブラック企業社員状態ですし、 逆にこの考え方で自分なりに
納得できるならば、ある種の修行やノウハウ蓄積のためにブラック企業
で働く、という選択だってアリなのです。

……という結論そのものは、実はそんなに目新しいわけではないですが、
経済的な理屈の積み重ねから、非経済的な「資産」の
積み上げを 推奨するという切り口が面白いです。


自分の生がどんなシステムに絡めとられているのか
 『シャドウ・ワーク』

   

さて、ある意味今回ご紹介する中ではジョーカーとも言える
本です。独特な用語や論理のスキップが多いので、
様々に語られる本です。

なので、私の紹介の仕方にも「その理解では浅い、間違っている」と
思われることがあるかもしれませんが、そのあたりが気になる方は
コメントででもご指摘いただければ幸いです。

著者のイリイチという人は、特定の肩書きにおしこめるのは難しい
人で、作家であり神学者であり歴史学者であり社会学者であり……
とにかく面白い人なのですが、私の理解する範囲では、
先人たちの築いてきた諸制度が今度はその構成員たちの生を
いかに絡め取り、制限してしまうか、ということに深く危機感を
抱き、警鐘を鳴らした思想家です。


「ジェンダー」という概念や「医原病」といった概念は、イリイチが
提唱したものと言えば、その業績の凄さが少しは伝わるでしょうか
(いずれの概念も、今日ではイリイチの問題意識からはだいぶ
ズレた使い方をされているように感じますが)。

この本は数本の互いに独立したエッセイからなりますが、その中で、
表題でもある「シャドウ・ワーク」という言葉は、

「産業社会が財とサーヴィスの生産を必然的に補足するものとして要求する労働」

……と定義されています。その代表例が、家事であったり、介護で
あったりするわけです。

で、そういったものの一部がさらに分断され、金銭により外注可能な
サービスとなっていくわけです。


その際にその分断の境目にあった「何か」がこぼれ落ちていくことで、
人の生き方は、本来そうであったものから遠のき、制度に仕えるための
ものになってしまう、という点をイリイチは問題視しているのです。
 
「主婦の労働は、賃金に換算するといくらいくらなのだから、
もっと大事にすべき」という類の言説はよく聞かれますが、これは
イリイチの問題意識のきわめて浅いところしかなぞっていない。

むしろ、金額に換算して表現されないと労働を実感できない
というのは、人の労働を推し量る尺度までもが、経済原理・貨幣制度に
絡め取られてしまっていることの証でもある
わけで、生まれながらに

そうした社会にいる我々にとっては、おそらくトコトン根が深い問題
なのです。


この本より前に紹介した3冊ではモヤモヤが解消しきれなかった
方には、一読をオススメいたします。

……もっとモヤモヤするかもしれませんが(笑)。

これ読んでモヤモヤしたら「第4冊 偉人の父は、エラい奴だった 『夢酔独言』勝小吉」でも
読むといいかもしれません。

なぜイリイチの本がわかりにくくなるか、ということは結構重要な問題で、
それについても私見はあるのですが、長くなりそうなので、稿をあらためて
書きたいと思います。

2014/10/09

第27&28冊 中国人の「古代妄想」に触れる 『孔子伝』&『字統』

白川静という学者の名前をご存知の方も
多いかと思います。

甲骨文・金文まで遡っての漢字研究で有名な
碩学。

余談ですが、学生運動華やかりし頃、立命館大学が
全学封鎖となっていた中でも、淡々と研究室で研究を
続けていたそうで……何とも頭が下がります。

新訂 字統

白川静さんの手になる辞書『字統』、私も学生の頃に読みふけって
いましたが(思えば贅沢な時間の使い方でしたねぇ)、
何が面白いって、漢字のルーツが古代呪術であることを
これでもかこれでもかと見せつけ、古代の中国人の世界観を
生き生きとした形で示してくれることです。


表意文字である漢字を使う国に産まれた事を感謝したくなる
面白さです。


言うなれば、「古代妄想」の結晶であります。
妄想という言葉を使っていますが、バカにしているわけではなく、
当時の人々の世界観としては一本筋の通った……というか、
それこそが彼らの「世界」であり、リアルだったわけです。


例えば、就職の「就」の字が、犬を磔にする古代呪術を
示す字である、と。そんな凄まじい字だったんか!と
驚かされます。


犬は呪物としてはかなりメジャーな存在だったと考えられるようで、
前にご紹介した『陋巷に在り』でも、ちょいちょい生け贄として
使われています。

 →参考:第13〜26冊 孔子が戦い、顔回が舞う『陋巷に在り』


余談ながら、私が愛してやまない夢野久作という作家の
エッセイ(夢野久作全集〈11〉 (ちくま文庫) 所収)によると、
近世まで犬を使った呪術というのは本朝にもあったようで、
犬を首だけ出して地面に埋めて、食事をギリギリまで与えず、
その後食べ物を見せてキチ○イのようになったところを
すかさず首を刎ねたものを触媒として使う、という何とも
スサマジイものだったようです。

そんな、漢字から古代中国人の考え方を読み解くという離れ業
をやってのけた白川静さんが酒見賢一さんにインスピレーションを
与えたであろう本が『孔子伝』です。

孔子伝 (中公文庫BIBLIO)

呪術がまだ「力」を持っていたであろう時代に、
孔子はおそらく巫呪を行う一族の一員として産まれた
のではないか……


そんじょそこらの小説はだしの着想から描かれた孔子像は、
十ウン年前にこの本を初めて読んだときまでに私が抱いていた、
何とも説教くさい孔子像を完膚なきまでに吹き飛ばしてくれました。


漢字と古代史の研究から、ひとりの、実際に生きた人間としての
孔子があぶり出されてくる様は、一種の推理小説のような面白さで、
『陋巷に在り』の参考資料の筆頭にあげられていたのも、
よくわかる気がします。

ちなみに、この白川静さんの二冊の本を読んでから、
『身体感覚で『論語』を読みなおす』を読むと、また
一段と面白いです。


 → 参考:第8冊 四十にしても惑いまくり! 
   『身体感覚で『論語』を読みなおす』安田登


孔子とか儒教にアレルギーのある人こそ読んでほしいなあ、と
思います。


余談ながら、孔子の末裔のひとりは日本でラーメン屋を営んで
いるそうなのですが……
http://snn.getnews.jp/archives/423777

第13〜26冊+α 顔回と孔子の呪術的世界『陋巷に在り』

歴史小説? 幻想小説?
なんと分類したらいいのか。

陋巷に在り〈1〉儒の巻 (新潮文庫)

この本については、全巻読破したら書こう、と
思っておりましたが、とうとう書ける時が来ました。
しみじみとした感動があります。全13巻。結構
読んだなあ……。

中国の歴史書で史実とされていることの隙間や謎に
納得できる答えを用意する<歴史小説>として。

その隙間でこれでもかと登場人物たちが権謀術数や
呪術をつかって戦う<伝奇小説>として。

当時の人々の信仰や生活を通して現在の今・ここ・
われわれについて考えさせる<現代批評>として。


どんな切り口で読んでもとにかく面白いです。


この小説の舞台は春秋戦国時代。
かの孔子が、まだ魯の国の政治家だった頃の話。
主人公は孔子の愛弟子として名高い顔回。


この顔回、『論語』を読む限り、孔子をヨイショする
発言をして孔子を喜ばせる以外はさしたる活躍を
していない人なのですが、『論語』では孔子は彼のこと
を大絶賛しています(「一を聞いて十を知る」という
表現も、元は孔子が顔回を評して言った言葉)。


なんで、この顔回に孔子はメロメロなのか。
『論語』読者には、いまいち釈然としないところですが、
この小説、そんな問いに対してもある種の答えになっている
のです。


■サイキック孔子伝!?

さてこの小説、売り出される際に、

「サイキック孔子伝!」

なるフレーズを冠されておりました。
完全に超能力バトルものを思わせるフレーズです。

この小説では、礼がまだ呪術から分たれていない
時代、というものが舞台となっており、この呪術
合戦が、確かに超能力バトルといえばいえなくもない。

この頃の時代の中国人の世界観というものに触れたければ、
白川静さんの著作に触れるとなお楽しめるかと思います。

 → 参考:第27&28冊 中国人の「古代妄想」に触れる
   『孔子伝』&『字統』

でも超能力によるバトル、と聞くと、現代の日本では、
小説よりもマンガやアニメで触れる機会のほうが
多いかもしれません。

サイコキネシスで相手をぶっとばしあい、壁に
球状のヒビがビキっと入る大友克洋作品のようなものや、
各人固有の特殊能力を使って戦う荒木飛呂彦のジョジョ
シリーズのような異能合戦みたいなイメージが強いですが、

AKIRA(1) (KCデラックス ヤングマガジン) ←サイキックといえば大体このイメージですよね。

 この『陋巷に在り』で描かれる超能力は、言っては何ですが、
見た目にはもっと「地味」です。


呼吸によって相手を惑乱。
呪物によって敵の侵攻を遅らせる。
話術によって相手を誘導する。
女子によって敵を誘惑。


でも「地味」とあなどるなかれ。


周囲の景色がじわりじわりと別の貌を見せ始め、
気づくと別の世界に迷い込んでいる恐ろしさ。

人の心や行いが、本人の思わぬうちに
蝕まれていく怖さ。

術をかけた側、かけられた側の微妙な精神状態の
変化が、その戦いの帰趨を決する。

そんな部分の愉しさは、この作者の筆によれば
こそでしょう。

舞楽を通じた神との交信なんて、これはなかなか
他の手段で表現するのは難しいよな、と思わされる
描写です。

さりとて、神と人がまだ近かった時代の精神状態ならば、
さして荒唐無稽とも思われない、丹念な描写です。

 →参考:第7冊 神は、まだそこにいるのです
 『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ

本来の意味での「サイキック」ならば、確かにその
微妙な心理描写を評するのにウソではないのです。


マンガやアニメに生まれながらにして触れている
世代からすると、「サイキック」と聞くだけで、
孔子が念力で人を吹っ飛ばしたりするような絵を
想像してしまいますが、そんなことはないです
(あ、でも孔子はフツーに腕力で武装した兵士を
吹っ飛ばしてます。そのへんもお楽しみに)。


■ものすごく「具体的」なファンタジー
とにかくこの作品では、その呪術合戦が陳腐に
ならないような工夫が随所に見られます。


呪術による超常現象が起きても、物理現象が
ねじ曲がるようなことはないように、
あくまで心理現象として術の効力が及ぼされる
ように、相当な配慮がされています。


また、用いる道具や方法、その技術を可能としている
原理、というものが執拗なまでに説明されています。


だから、もしかして現在、丹念にその術の理論体系を
学ぶ手段があれば、自分でもこの術を使えるように
なってしまうのではないかという妙なリアリティが
あるのです。


余談ながら、このあたり、酒見さんの
エッセイ集『中国雑話 中国的思想』の中で、
仙人になるための技術が異常に細かく
マニュアル化されている『抱朴子』について
触れられているところと重ねると、ちょっと面白いです。
中国雑話 中国的思想 (文春新書) 抱朴子 (岩波文庫)


例えば、催眠術に多少なりとも興味のある方ならば、
言葉を使わない現代催眠術の掛け方の基本の
基本として、呼吸のリズムを相手と合わせる
というものをご存知かもしれませんが、
そうしたノウハウも術の掛け合いの描写の中に
緻密に織り込まれており、スキな人はニヤリ
とできること請け合いです。


またまた余談ですが、現代催眠術の具体的な
ノウハウをざっと知るには、こんな本も面白かったです。
洗脳護身術―日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放

著者はかの有名な苫米地英人さん。
毀誉褒貶も激しい方ですが、この本は
べらぼうに面白いです。


■言葉を使う「呪術師」としての覚悟

小説の筋書きをアレコレ言うのは野暮なので、
まったく別の切り口から。


私はこのシリーズを文庫で読みましたが、
そのうちの何冊かにはあとがきがついています。


そのあとがきのひとつに、神戸連続児童殺傷事件、
通称酒鬼薔薇事件』について触れられたものが
ありましたが、本編もさることながら、この
あとがきが圧巻でした。



あの事件、犯人がマンガやアニメの影響を受けて
いた、とは早くから言われていた事です。


「マンガやアニメがそんな影響を及ぼすと
やり玉にあげられるのは心外だ」……と
多くのクリエーターならば言いそうですが、
ここで酒見賢一さんの言う事は違います。


要約すると、小説の影響、と誰も言わない
ことが不満なのです。小説が、それだけの
影響力を持つメディアたりえないことが、
不満なのだ、と。


別に犯罪の起爆剤になればいいな、と
言っているわけではないところに
注意すべきですが、そうなるかもしれない、
と思われるような「毒」というか、何か
とんでもないもの……暗がりを覗かせる
ような「力」を、小説に持ってほしい、
いや持たせてみせる、という決意表明と
受け取りました。


『陋巷に在り』では、古代の礼の滅び、
呪術の凋落が描かれていますが、
新興メディアがすでに深く根付きつつある
現代に、文筆の力のみ、文字だけで書かれた
もので、時空を超えて読者は喜怒哀楽と
振り回してくれる小説というものは、
考えてみればこれも立派な呪術とも
言えるわけです。


『身体感覚で『論語』を読みなおす』では、
ある物を移動させるとして、礼を尽くして言葉にして
力持ちの人に物を運んでもらえるのだったら、
それは念力で移動させるのと同等以上の呪術ではないか、
という意味合いのことが書かれていましたが、

 → 参考:第8冊 四十にしても惑いまくり! 
   『身体感覚で『論語』を読みなおす』安田登

もしそうだとすれば、様々なメディアが登場し、言葉を容易に
複製し、バラまき、遺す事ができる現代は、もしかしたら
史上最も呪術的な時代なのかもしれません。

 → 参考:第2&3冊 disる言葉が、今日もどこかで増えてます
   『呪いの時代』内田樹 & 『虐殺器官』伊藤計劃

呪術師、酒見賢一さんの更なる活躍を
祈ります。


蛇足ですが、この小説の中盤以降に、
ケレン味たっぷりな医鶃という医師が登場し、
呪術や体術、様々なハッタリ(!)まで使って
治療を行いますが、このあたりの描写や、
彼の術や生き様に対して加えられる酒見さんの解説、
また、現代の代替医療に対する考察などは、
私のように怪しい技術で人様を施術してお金を
いただいている人間は一読の価値ありです。



2014/10/05

第11冊&12冊 もっと人の足下を見る『足の反射療法』&『症例別足もみ療法』

足の反射療法 症例別足もみ療法―1日15分で効果テキメン


■耐えられる痛みは痛みじゃない?
『足裏は語る』と『体癖』を読んだせいでおかげで、
足裏の状態と体の関連を掘り下げてみたくなりました。

ということで、二冊ご紹介。
『症例別足もみ療法』と『足の反射療法』です。

『症例別足もみ療法』の著者、鈴木裕一郎先生は、
靴屋としてドイツのシューマイスターの資格を取得後、
前回紹介した『足裏は語る』の平沢弥一郎先生のもとで
足裏研究の「弟子」となったうえに、今度は中国で
「観趾法」なる足裏療法を学んで帰国した、まさに
足のスペシャリスト。


一方の『足の反射療法』は、プロ仕様の足裏施術の
方法を紹介した本で、近代の足裏療法の祖、米国の
イングハム女史(なぜか、この方は女史をつけて呼ばれる
ことが多い。慣例?)の流れをくむ、ドイツ式の足の
反射療法の本を翻訳したもの。


フットリフレクソロジーの店が至る所にある日本では慰安の
イメージが強く、「治療に用いるもの」というイメージは
あまりない、というのが実情でしょう。


……が、この両書では、かなーりの厄介な病気まで、
ひたすら足を揉み倒すことで治療しています。

『足の反射療法』では、

患者が耐えられる痛さになるまで揉む

という記述がさらりとなされていました。


ってことは、体が悪い場合、施術時間の多くは、
耐えられないような痛み……なわけです。


足ツボ療法は、実際に受けに行った人の話を聞く限り、
メチャクチャ痛いとか、いや気持ちいい程度
だったとか、店や術者、受け手の体調によって
色々な場合を聞きますが、おおむね痛い事自体が
一種のエンターテイメントのようにして
受け止められていることが面白い。


■なぜ足ツボ療法はかくも広まっているのか

曲がりなりにも手での治療をナリワイにしている身からすると、
治すのが目的ならばケチケチせずに、足裏以外も狙って
施術すればいいじゃない、とも思ってしまいますが、
短所と長所は背中合わせ……。


マッサージ師の国家資格を持たない人がリラクゼーションの仕事を
するにあたって選択するには、かなり気の利いた治療法なのでしょう。


なぜなら、足裏揉むだけでは、なかなか重篤な副作用や施術中の事故は
起きづらい(はず)なので。


また、反射区と体の関係が究極的には実証されていない以上、例えば、術後に
内臓の調子がおかしくなっても、術者は「でも足裏しか押してませんよ?」
と居直ることも、できなくはないわけです(どう思われるかはさておき)。


クレームをつけられる可能性が低い手法である、ということは、
経営する、という観点から言えばかなり重要なことですよね。


■セルフケア法のひとつ

あと、足裏療法の何がいいって、自分で自分に出来る事です。


『足の反射療法』は足裏を使った治療法がまだまだ市民権を
得ていない頃に書かれた本であるせいか、自分での施術を
あまり勧めていませんが、『症例別足もみ療法』ではむしろ逆。
自己治療をとことん推奨しております。


……まあ、鈴木先生は治療そのものは生業ではないですから、
そう書けるのかもしれません。


反射区がそこまで人の体の全体を反映しているのか?という
疑問は相変わらずですが、理屈が正しかろうが誤っていようが、
実際にそれなりの効果を実感できている人が少なからずいるのは
間違いなさそうなので、しばらく自分の体で実験してみようと
思います。