2015/03/27

第64~66冊 自分の「からだ」と出会う、「よくわからない」方法 『「からだ」と「ことば」のレッスン』『ことばが劈(ひら)かれるとき』『竹内レッスン』

今日ご紹介する三冊の著者である竹内敏晴さんという方は、
職業で言えば「演出家」、ということになるのでしょうが、
本を読んで感じるのは、そんな枠組みにおさまらない、
「からだ」と「ことば」の探究者であるということです。

これほど「からだ」とか「ことば」といったものについて
深く考えている人は、マッサージ師などの手技療法家にも
なかなかいないのではないか、と(自戒をこめつつ)感じます。

人と人とが分かりあうとは、どういうことか。
ことばとからだの関わりとは、どういうものだろうか。

……という、ものすごく根源的な問いに対して
向き合って書かれた本たちでは、ことばやからだという
ものが意識されていくことで、人がどう変わっていくか、
ということまで踏み込んで描かれています。

「話しかけ」のレッスン


「からだ」と「ことば」のレッスン (講談社現代新書): 竹内 敏晴


自分のことばが、相手にちゃんと届いているか、
なんてことを意識したこと、ありますか?


単純に声が大きい小さいとは関係なく、ある時は
ことばは相手に届かず、落ちる。またある時は、
相手を通り過ぎる。その人、ではなくて、そのあたりの
人々、に届いてしまうこともある。


そんなことを体験してみる「話しかけ」のレッスンの
ことを知ったのは、10年近く前、『「からだ」と「ことば」のレッスン』
を読んで、でした。


人間対人間のやりとりとしての「ことば」や、それを発する
「からだ」を掘り下げていく「レッスン」の数々は、あまりにも
抽象的で、演劇のレッスン、というもののイメージを覆すものでした。

聞きわけているうちに、声とは、単に空気の疎密波という観念によって表象されるような、抵抗感のないものではないことが実感されてくる。肩にさわった、とか、バシっとぶつかった、とか、近づいてきたけどカーブして逸れていった、というような言い方で表現するほか仕方のないような感じ――即ち、からだへの触れ方を、声はするのである。(『「からだ」と「ことば」のレッスン』p27)

何のこっちゃい、と思われる方も多いかと思いますが、
同じレッスンをしなくとも、例えば、目の前にいる人の話し方を
苦痛に感じるか、心地よく感じるか、それはどこに感じるか、
といったことを注意するだけでも、だんだんと面白さと奥深さが
わかってきます。

苦闘の歴史


ことばが劈(ひら)かれるとき 竹内 敏晴


 普通に暮らしていたら気にならなそうなそんなテーマに
なぜ著者はそこまでこだわるのか。そこには、慢性中耳炎
急性発作症なる病のために言葉が聞こえなかった著者が、
徐々に聴力を回復するとともに「ことば」を取り戻していった、
という経緯が絡んでいるようです。

そうした経緯や竹内レッスンと呼ばれることになる
不思議なレッスンの誕生や展開を自伝風にまとめた
『ことばが劈(ひら)かれるとき』には、自らのレッスンについて
こう記しています。

演技とは、芝居をうまくやるための技術、ととるのが
通常の理解だろうが、そのような配慮はまったく
私の頭から消えていた。「レッスンによって人間の
何が変わりうるか、どのような可能性が劈かれるか」、
ひいては「人間にとって演技レッスンとは何か」、これしか
私の関心はなかった。(『ことばが劈(ひら)かれるとき』p123)

彼にとって、演技のレッスンとは、自分という「からだ」で、
人間としてどう生きるか、という前提の前提にまで立ちもどるような、
きわめて根源的な問いかけだったのでしょう。


わかる、ってどういうこと?


竹内レッスン―ライヴ・アット大阪: 竹内 敏晴

からだの「実感」をベースにして人間や人間同士の
関係性というものをひもといていく探求は、例えば
以下のような話からも分かるとおり、理屈、頭だけ
使ったような理屈とはまた別の世界を、我々に
垣間見せてくれます。

「ああ、これが俺の本当に言いたいことだったんだ」というのは、実は声に発して、相手が受け取ってくれたとき、初めてわかるわけです。自分のほうで、言いたいことを一所懸命に言えば、それは本当にその人が言いたかったことかというと、必ずしもそうじゃない。「これで本当に自分の言いたいことが成立った」と思う瞬間がある。それは結果から言えば、自分も気がつかなかったような、意識の底というか深みから、浮かび上がってくることばだろうと思います。(『竹内レッスン』p48)

この本に記されている参加者たちの座談会では、何に役に立つ、
とか、これがわかった、と簡単に言語化できない「何か」に触れるために
レッスンを続けていることがじわじわと伝わってきて、自らの意識の底の深みと
対面する時間や空間への渇望を感じさせてくれます。


竹内敏晴さんの本は、これ以外も面白いのですが、
とにかくこの面白さ、自分のからだのことすらよくわかっていなかった、
ということが浮き彫りにされてくるこの感じは、ぜひ体感していただきたいと
思います。


この方の本を読むと、なんとも不思議な安らぎを感じるんです。
チョット怪しいですけど。

2015/03/17

第63冊 本当の原理主義とはこういうことさ 『イスラーム 生と死と聖戦』

イスラーム 生と死と聖戦 (集英社新書): 中田 考: 本


原理主義より原理的


イスラーム研究者にして本人もムスリムという
日本では稀有な存在の著者による、イスラーム思想の
入門書。

いや、わかりやすいけど入門書と呼んでいいのかどうか……
この点は後述します。

北大生をISへ紹介したかどで物議をかもした著者だけど、
この本を読むと、その考え方のスケールに畏れ入ります。

イスラーム思想をつきつめて考えるとこういう世界観に
なる、という考え方を紹介しているが、その過程で、
色々と目からウロコの話が続きます。例えば……

イスラームの話をすると、必ずと言っていいほど
「イスラームにはタブーが多くてたいへんそう」という
感想を聞きます。そこにはふたつの誤解が含まれています。
まずタブーと言う概念自体がイスラムにはないこと、
もうひとつは、イスラームはかなり自由度が高いもので
慣れてしまえば楽なことです。(p52)

「えっ?」と思いませんでしたか?
詳しくは読んでいただきたいですが、これだけでなく、
目からウロコの落ちまくる内容です。

・イスラームは、実は他の宗教にかなり寛容
・イスラームはアニミズム 
・イスラーム原理主義者と言われる連中も、実は
 イスラーム思想の根本に則っていない
・政教分離では実はあんまりいいこと起きていない
・イスラームは本来、国家というものを必要としない

私は本書で、自分がイスラーム思想がまったく
分かっていなかったことがよぉーく分かりました。


いや、中田さんに言わせると、ムスリム当人たちですら
イスラーム思想がいまひとつ分かっていない、という
ことになるのですが。



入門書の皮をかぶった、変革の書




この本の凄みは、

「世界中がイスラーム法が施行される空間になれば、
宗教や生活上の習慣の多様性は確保したままに
国家は不要になり、人間はより自由になれる」

という、ある意味イスラーム国が可愛く思えるくらいにアナーキーな
世界観を、「論理的に」提出してみせていることです。


イスラーム思想を敷衍していくと、現在世界を覆う問題に
対して、我々が前提と思っている世界観そのものを揺るがすような
(「国家」そのものが不要なのでは?など)解決法に至るという、
その論の展開は圧巻です。


また、現在世界を騒がせているイスラーム国、ISを、
イスラーム思想そのものを突き詰めた論理から批判するという、
ちょっと余人にはマネのできない知的アクロバットを見せてくれます。


日本国内では、イスラーム国を「国」と認めること自体が彼らの
思うツボだ、という論調が主流ですが、中田さんの論によれば、
彼らが「国」を志向すること自体が、イスラーム思想としてツメが
甘い、ということになります。


イスラームに興味のある人はもちろんのこと、興味のなかった人も、
我々の住んでいる世界・社会を相対化して考えることのできる、
頭のストレッチになって楽しいと思います。ぜひご一読を。

第62冊 霊界との清く正しいお付き合い 『いかにして高次の世界を認識するか』

 
いかにして高次の世界を認識するか
ルドルフ シュタイナー, 松浦 賢


私がメシのタネにしている代替医療の
業界というのは、面白い人の巣窟で、
霊が見える、オーラが見える、悪い所が
黒く見える、みたいな話は枚挙にいとまが
ありません。

私自身は、今のところ、そういうのは
まったく見えません。

見えたら仕事上便利だろうなぁ、とは
思うのですが、話のタネとしてオカルトは
好きなのに、仕事上役立つような特殊知覚は
発現しておりません。

で、この本も、何かの間違いでそういう世界が
見えると、便利だろうなあ、という下心で手に
とりました。

で、本を読んで叱られた気分になるという、
素敵な体験をしました。

珍しく読みやすいシュタイナー


没後90年経ってなお、ルドルフ・シュタイナーの
思想はおもに教育哲学の世界とオカルトの世界に
またがって、強い影響力を持ち続けています。

が、その著作は、人智学といわれる独自の
思想体系に裏打ちされていることもあり、
ナカナカにハードルの高い、読みにくいものが
多いのですが、この本は、そんなシュタイナーの
本としては格別に読みやすいです。

そして、タイトルからすると、霊視能力の
開発ノウハウが学べる本、という印象ですが、
さすがはシュタイナー、手っ取り早くオーラを
見たいとか、手っ取り早くヒーリング能力を
身につけたい、みたいな俗流(?)スピリチュアル本とは
格が違うのです。

……というところを、今回は取り上げたいと思います。

ちゃんとした人になりなさい!



まず最初の「条件」として、以下のようなことが語られます。

周囲の世界や自分自身の体験のいたるところに、崇拝や尊敬の感情を呼び起こすものを探さなくてはなりません。たとえば私がある人に会った時に、その人の欠点を批判的に見ると、私のなかから高次の認識能力が奪われます。(p11) 
世界や人生に対する感嘆や尊敬や崇拝の感情で満たしてくれるような思考のみを意識に上らせるようにすると、私たちは早く向上することができます。(p12)

この「良いこと探し」「人や世界をリスペクト」ですが、私もやる前は
正直ちょっとバカにしてましたが、実際にやってみると、驚くほど
メンタルの問題が落ち着きます。

逆に言えば、Facebookで友達の幸せに嫉妬するような
精神状態で霊能力なんて身につけてもロクなことはないってことです(笑)。

内面の平静の時間を生み出しなさい。そしてこのような時間に、重要な事柄と重要でない事柄を区別する事を学びなさい。(p20)  
学徒は、みずからの喜びや悲しみや心配事や、経験や行為を、自分自身の魂の前によぎらせます。そして、このとき、ふだん体験しているあらゆる事柄をより高い観点から眺めるようにします。(p21)
自分で決めたとおりに外界の印象の作用を受け取る能力をみずからのうちに育てなくてはなりません。(p28)

外界の瑣末なことに振り回されない自分を、まず、つくりあげる。

あの売れに売れたビジネス思想(?)書『7つの習慣』風に言えば、
「重要事項に着手せよ」「刺激と反応の間を広げよ」ってやつですね。

説教くさいなぁと思う方もあるかもしれませんが、
マスコミに登場する自称霊能者の胡散臭さを思えば、
「高次の世界」を認識する前に、その認識にふさわしい人格を
身につけよ、というのは至極まっとうな考えだと思います。

いや、そこまでいかなくても、自分には他のヤツがわからないことが
わかり、見えないものが見えている、という自信に溢れたヤツが、
どれくらいイヤなヤツかを想像するだけでも十分でしょう(笑)。

霊の世界がどうこう言う前に、ちゃんと働け


面白いのは、高次の世界を認識するための訓練にただ
没頭するような生き方はむしろ推奨せず、

数分間訓練を行ったら、私たちはそれをやめて、
おだやかな気分で日常的な仕事にとりかかるように
します。訓練に関わる思考を、私たちの日常的な仕事のなかに
いっさい紛れ込ませてはなりません(p54)
どのような仕事にも、私たちが人類全体のために奉仕する可能性が
含まれています。「私にとって、この仕事はひどすぎる。私は別の
仕事に向いているはずだ」と考えるよりも、「このささやかな仕事を
(あるいはいとわしいと思われるような仕事を)人類全体はどれほど
必要としているか」ということを認識する方が、私たちの魂は、
はるかによい影響を受けます。(p118)

と、日常的な仕事をシッカリこなすことが重要と考えている点。

まあ、日々、

「ハイヤーセルフが」
「次元上昇が」

なんてことばかり言っている人になるよりは、
日々淡々と働き、でもそういう世界も実は
コッソリ分かるんです、という人になったほうが
カッコイイよな、とは私も感覚的に思います。

が、アカシックレコードを認識できてこの世のこれまで
起きたことが霊視出来るんだ.、というルドルフ・シュタイナーが、
訓練は生活に支障をきたさない程度にね!と何度も念を
押しているのは、チョット面白いところです。

で、だんだんこの時点で、「見えたら便利だよねー」
みたいな気分の私は、どうやら叱られている気分に
なってきました(笑)。

で、結局超能力は?

物質的・感覚的な世界における机や椅子と同じように
感情や思考は現実的な事実である、ということを
完全に理解するとき、私たちは高次の世界に
おいて自分の位置を確認することができるようになります。(p42)
……とあるように、本書で強調されているのは、感情や
思考をコントロール下におくことです。

そのために、瞑想や周囲の風景、音、物などへ意識を
集中、没入させることで、「高次の世界」を認識していくという
具体的な方法は色々と本書の中で紹介されています。


とはいえ、基本的には忍耐が要る、ということが繰り返し述べられ、

しばらくの間は、静かに自己の内面に留まっている
状態を保ちなさい。『いつか私がふさわしい段階まで成熟したら、
生じるべきものが生じるだろう』という思考を自分のなかに深く
刻み込んだら、慣れ親しんだ日常の仕事に取り組みなさい。
そして高次の力のなかから、何かを好き勝手に自分のほうに引き寄せ
ようとする態度を厳しく戒めなさい(p107)

と、「超能力で色々いいことづくめヒャッハ―みたいなことは思うなよ」、
と戒められております(笑)。

まあ、現世で無敵になる裏コマンドとかは、無いってことです。


ごめんなさい、シュタイナー先生。


以下余談。

おそらく唱えているシュタイナー自身もこの本で書かれているような態度を
完全に貫いた、ってことは多分できていなくて、理想というか、努力目標とか、
そういった類のものだったのだとは、思います。

シュタイナーがアカシックレコードが●●できるとかいう話は、シュタイナー
自身がこの本で語っている戒めを踏み越えているように思えますし……。

逆に言うと、それだけ「あっちの世界」の魅力は強すぎるということかもしれません。

2015/03/03

第61冊 動けなくてハズカシイ高校生たちの超・密室青春群像劇 『ガレキノシタ』山下貴光

帯に曰く「極限型青春小説」。


何故か手にとってしまい、何故か買ってしまい、
何故かあっという間に読破してしまいました。


どうまかり間違っても、普段だと「青春小説」
なんて銘打たれたものに手をつけることは
ないのですが、最後に付いている大森望さんの
解説を読んだら、何とも面白そうだったんです。


おのれ大森望。


いや、罠にはまって良かった、ですよ。


ガレキノシタ (実業之日本社文庫): 山下 貴光

登場人物がガレキに埋もれてほとんど身動きできない
中で物語が進行するという「超・密室劇」。


そんな「不自由」な舞台設定なのですが、そこはさすが、
『屋上ミサイル』で「このミステリーがすごい!」
を受賞した作者だけあって、仕掛けが満載。


語り手を変えての全七話の短編を通して、
あっちの謎がこっちで解けたり、この人の
大切な人の安否があの人の話の中で
分かったり、といったあたりの仕掛けのおかげで、
あれよあれよと言う間に読めてしまうのです。


とある高校生の回想の中で、その友人が

 「人類の平和のためには共通の敵が
 いればいいのではないか」

という理屈を展開するのですが、本作
そのものをメタ視したような発言だなぁ、と。


本作での「共通の敵」は、もちろん、校舎の倒壊
とそのガレキの下への生き埋めという緊急事態です。


身動きもできない極限状態だからこそ
登場人物たちが素直になれたり強くなれたり
悪くなれたり、という色々があるわけで。


だからね、はっきり言ってしまえば、ガレキは
「言い訳」なのでしょう。


「極限状態だから、これくらい恥ずかしい
ド直球な青春小説になってしまっても……
いいよね!? いいよね!?」


……という。


思い返せば、2011年3月11日の大震災の後しばらく、
私自身、「震災後ハイ」みたいな状態がありました。


当時の自分のメールやツイートを見るとずいぶんと
気恥ずかしいメッセージを家族や友人に対して
送っていたことに気付き、なんともくすぐったい気持に
なったものです。


ちょっと斜に構えた本を読んでばかり来ましたが、
まあ、たまにはこういうドドド直球もありかな、と
思いました思わされてしまいました。


まあ、敢えて難癖つけるならば彼らの青春は
おおむねサワヤカ過ぎるのが鼻につく(笑)。


私の高校時代なんて『ドグラ・マグラ』読んで
ブウウゥウウーンとか言いながら、延々
モヤモヤ暮らしてましたからねぇ。
男子校で男ばっかりだったし。


あ、まったく余談ながら、表紙は女の子がセーラー服で
ヘソ出してますが、本文中のYシャツ云々の描写から
すると、こーゆー制服ではないのではないか、などと
どうでもいいところが気になりましたが、
まあ、枝葉末節です。


人に伝えたいことは、まあ、恥じらいながらも
ちゃんと伝えておいたほうがいいですわな。